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11.退場(2)
暁も碧も、何もできなかった。
声すら出せない。
ぴたり
いきなり、荒れ狂っていた泉が止まった。
渦巻き、波打ったままの形で、静止したのだ。
まるで急速冷凍されたかのように。
「止まってる……」
暁が、呆然と呟く。
すると、さらに驚くことが起こった。
しゅんっ
一瞬で、水面が平らに収まったのだ。
ありえない動きだ。
オーケストラボックスの泉には、再び、整然と弦楽器が浮かんでいた。
待てよ。さっき、流されてたか、これ?
碧も呆然と見下ろしつつ、思わず自問した。
目にしたばかりの記憶を、プレイバックしてみる。
渦に攫われて、ぐちゃぐちゃに漂う筈じゃないか。
でも、違っていた。
時折、渦の間に、楽器が覗いていた。
つまり、嵐の中でも、頑としてこのフォーメーションを保っていたのだ。
まるで、位置固定されているみたいに。
「……ド・ジョー、いなくなっちゃった」
隣で、暁が寂しそうに眉を下げた。
「どうして急に、あんな嵐になったのかな?」
碧が、考え考え口にした。
「のっぺらぼうの声が、『消えて』って言っていたよな。そのせいかも……」
「退場って?」
暁が、ド・ジョーの漏らした言葉を繰り返した。
「たぶん、この事象のことだろう、けど」
「でも、どうして?」
「わからない……」
碧も、力なく呟く。
二人で喋っていても、何ひとつ分からなかった。
だが、これだけは、はっきりしていた。
ド・ジョーは、まだ自分達に伝えようとしていた。
それなのに、何かが、無理やりにド・ジョーを引っ込めてしまったんだ。
碧と暁は、しばし黙って立ち尽くした。
お互いの気持ちが、同じなのが伝わる。
行かないで欲しかった。
さみしい。
碧の顔が、どんどん翳っていく。
これは、いけない。
気付いた暁が、くいっと腕を引いた。
にこっと笑ってみせる。
「とにかく、このトウシューズ、あの子にあげてくるね!」
暁は、碧の気を引き立てるように、元気に言った。
立ち直りまで早ければ、行動も早い。
「あ、ああ。うん……」
碧が鈍く返事をすると、暁は、さっさと鏡に向かって歩いて行った。
ぺたぺた、音がする。また裸足だ。
だだっ広い劇場を見渡して、碧は溜息をついた。
絢爛豪華だが、今は、なんだか寒々しい感じがする。
ぽつんと立っていたら、なおさらだった。
じわじわと心細さが襲って来る。
くるりと客席に背を向けると、碧も、やおら暁を追った。
ステージ中央に並んだ、7枚の鏡。
なんか、改めて見ると、意味ありげだよな。
配置も、ストーンヘンジみたいだ。
なんだか呪術っぽい。
なんとはなしに思いながら、碧は近づいた。
自分の姿が、端っこの鏡から、順繰りに映し出されていく。
ああ。鏡面に戻ったんだな。
四辺も、もう光っていない。ただの金縁だ。
蔓バラが彫られた、お揃いのデザインだが、真ん中の鏡だけ、ちょっと違う。
右下に、ピエロのお面が付いている。
同じ金色に埋もれて、ちょっと気付きにくい。
そして、この鏡だけは、今も鏡じゃなかった。
真っ黒に塗り潰された中に、ふよふよとバレリーナが浮かんでいる。
あ、のっぺらぼうに戻ってる。
暁の顔じゃ、なくなったのか。
前に立った暁は、トウシューズを差し出すと、晴れやかな笑顔を向けた。
「はい! これでしょう、あなたにあげる」
後ろで見ていた碧は、内心、唸った。
我が幼馴染ながら、あっぱれだ。
あれだけ労力を尽くして手に入れたというのに、恩着せがましさが1%も含まれていない。
『……手から離して。床に置いてちょうだい』
固い声が、鏡から返ってきた。
まあ、ありがとう! 嬉しいわ!
なんて反応じゃないんだな。
なんか、肩透かしを食らった気分だ。
でも、碧とは違って、暁は素直に頷いた。
すっと屈むと、トウシューズを鏡の前に置く。
「……まあ、お化けだしな。人間の感覚じゃ量れないよな。しかし、のっぺらぼうって、どこから声を出してるんだ?」
碧が、ぶつぶつ零していると、暁が勢いよく振り返った。
「碧! 見て!」
鏡を指している。
床に置かれた筈のトウシューズが、姿を消していた。
碧は、息を呑んだ。
お団子に纏めた黒髪。
白いレースのチュチュに、白いタイツ。
そして、ピンク色のポアントだ。
これで完成だ。完璧なバレリーナだった。
『うれしいわ。これで、あなたは、また来てくれるわね』
満足げな声が、鏡から聞こえてきた。
『それとも、このまま私と、ずうっとここにいましょうか。この、夢の世界に』
うふふふふ……
含み笑いが続いた。
なんか、あまり感じがよくない。
だが、その声も徐々に小さくなっていった。
バレリーナの姿も、どんどん薄くなっていく。
そのうちに、完全に消えた。
一面、黒い闇になる。
ぱっ
急にスイッチが切り替わったかのように、暁と碧の姿が映し出された。
普通の鏡になったのだ。
「……成仏したってことかな」
碧が推測する。
「なんか、最後、呪いみたいなセリフを残していったけど」
「そっか。よかったね」
暁は、全く気に留めていない。
嬉しそうに言うと、鏡を背に歩き出した。
これにて完了だ。
途中から、鼻歌混じりのスキップになっている。
ぴょんと跳ねた拍子に、ぱっと暁は振り返った。
碧が、ゆっくりと後ろを付いてくる。
眼鏡の奥で、碧の目も少し微笑んでいた。
ま、よかったかな。
そう思ってる。分かりにくいけど、自分には分かる。
暁は、また嬉しくなった。
スポーツバッグは、ちゃんと二つ、床に並べて置いてあった。
暁のサンダルも、きちんと揃えて置かれている。
全て、碧の手によるものだ。
暁は、サンダルを履くと、バッグを拾い上げて肩に掛けた。
所要時間は、約二秒である。
「じゃ、帰ろっか」
言葉にした暁が、はっと気付いた。
碧の顔から、さあっと血の気が引いていく。
同じ疑問が、お互いの顔に浮かんでいた。
どこから?
どうやって?
「……案内板だ。探そう」
碧が、青い顔で促した。