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14.帰還(2)
そんな馬鹿な。
空手の稽古が終わったのは、4時半だ。
それから、二人で児童館に寄った。
その扉から、オーロラの地宮に迷い込んだのだ。
児童館までは、リニューアルした設備が目新しくて、さんざ寄り道した。
10分は優にかかっていただろう。
そして、帰還してから、このお説教。
これも、10分以上は続いている。
稽古後、着替えに要した時間を足せば、それだけで30分になってしまう。
どうして?
あっちの世界には、確実に数時間は居た筈だ。
こっちでは、その時間が経っていないっていうのか?
言葉を交わさなくても、お互い、同じことを考えているのが分かった。
目の前の鬼塚警備員は、もはや自分に酔っていて、碧と暁の様子に気付かない。
時報のアニメーションが終わると、エントランスホールに、聞き慣れた曲が響いてきた。
「夕焼け小焼け」だ。
カラスと一緒に帰りましょう。
夕焼けチャイムが、そう促している。
外の公園でも、スピーカーから放送されているが、ここの音質は、桁違いに良い。
違う曲みたいに聞こえる。
暁の方が、驚愕から立ち直るのが早かった。
そして、伊達に叱られ慣れていなかった。
今だ。好機、逸すべからず。
遠慮がちに、だが、はっきりと、警備員さんに切り出したのだ。
「あの、すみません。もう帰らないといけないんですが」
ナイス、暁!
碧は、快哉を叫びそうになるのを、意思の力で抑え込んだ。
頷いて、同意を示すに留める。
そうです、そうです。帰らないと。
「あー……そう。そうだね、じゃ、」
鬼塚警備員は、我に返った顔で、二人の子どもを見下ろした。
気の抜けた声が、鬼面から洩れる。
「はい! すみませんでした!」
おっかぶせるように、暁が謝る。
「すみませんでした!」
碧も唱和した。これで文句はあるまい。
次の瞬間、暁が離脱した。
速い。きっと、早歩きの人類最高速度だ。
こんなところで取り残されたら、大変だ。
碧も、死に物狂いで後を追った。
足が縺れそうだ。でも、走ったら怒られてしまう。
「学校に連絡しとくからね!」
二人の背中に、捨て台詞が投げつけられた。
まあ、そうなるよな。しょうがない。
だが、暁が進路を取ったのは、玄関と逆方向だった。
フロアーの端っこにある、トイレだ。
「ごめん。ちょっと行ってくる」
「あ、俺も」
家までは、そう遠くない。
でも、我慢しながら帰るのも嫌だ。
先に出た碧が待っていると、ぶんぶんと手の水気を切りながら、暁が出てきた。
西センターのトイレには、基本的にペーパータオルが設置されていない。
5階の手洗い場は、例外だった。
リサイクル活動の展示目的で、特別に再生ペーパーを置いているのだろう。
「もー、暁。スポーツタオルで拭いちゃったら?」
碧が呆れた。
トイレで眼鏡を掛けて、いつも通りの顰めっ面だ。
「んー。まだ濡れてた」
そうだった。
なにしろ、暁は、オーケストラボックスの泉に、どぼんと飛び込んだんだから。
「……やっぱり、夢じゃなかったんだよな」
碧が、小さく呟いた。
「うん、夢じゃない。ちゃんと行ったんだよ」
濡れたタオルが証拠だ。
暁は、きっぱり断言した。
でも、さすがに辺りを憚って、小声である。
絢爛豪華な劇場、ガルニエ宮。
オーケストラボックスの泉には、黄金のドジョウが住んでいる。
「オーロラの地宮」と呼ばれる夢の世界が、
確かに、この地下深くに埋もれているのだ。
エントランスホールには、何人もの利用客が散らばっていた。
見知った顔も、混じっている。
「ねえ、もし、誰かにこの話をしたらさ?」
しばらく眺めてから、暁が口を開いた。
答は、分かり切っている。
「ま、誰も信じないだろうな」
碧が、あっさり述べた。
微笑ましい子供の空想。それで片づけてもらえる年齢じゃない。
「うん、そうだよね……」
暁も、同意した。
「変に大事になっちゃっても、困るよね」
「ああ。誰にも喋らないほうがいい」
なんにせよ、無事に帰ってこられたんだから。
「玄関の方から帰ろうよ、暁」
碧に促されて、ようやく暁は歩き出した。
すぐ近くに通用口があるが、そこから出ると裏道を通るルートになる。
玄関から出て、大通りから帰ったほうが、安全なのだ。
フロアーを進みながら、暁が首を傾げた。
「そういえば、なんで、こっちでは時間が経ってないんだろ」
「ああ、浦島太郎みたいだよな。実は、数十年の月日が流れていました、なんてオチだったりして」
自分で言っておきながら、碧は一瞬、ひやりとした。
でも、すぐに思い直す。
それは、ないな。
さっき、同じクラスの奴らがいた。
西センターの鬼に捕まった自分達を、遠巻きに眺めていたのだ。
あいつら、面白そうな顔をしやがって。
夏休み明けに、絶対に、からかわれるだろう。
ああ、気が重い。
「碧、おうち大丈夫?」
急に顔を曇らせた碧を、暁が気遣った。
「ああ、そっちは大丈夫」
いつもより、すこし遅い程度だ。
母親も、まだ仕事から帰宅していないだろう。
あれ?
ふっと、碧は振り返った。
視界の端に映った女の子が、自分達を見ていた気がしたのだ。
白鳥像の横に設置されている、電子案内板の所だ。
ぱっと、その子は背中を向けた。
デジタルサイネージに向かって、忙しなく手を走らせている。
なんだ。気のせいか。
しゃれたワンピースの後ろ姿だ。
小学生では無さそうだし、知り合いでもない。
碧は、すぐに視線を逸らした。
暁と並んで歩いて行く。
ポーン
音を立てて、玄関の自動ドアが開いた。
玄関フードに入ると、また、その先のドアが自動で開く。
西センターの出入り口は、防音や室内温度管理のため、二重扉になっているのだ。
外扉が閉じると、エントランスホールの喧騒は、完全にシャットダウンされた。
むわっとした外気が、暁と碧を包み込む。
もう残暑だっていうのに、まだまだ暑い。
セミも、なんだか自棄くそ気味に鳴いている。
ふんふん
鼻歌混じりに、暁がスキップしだした。
この曲は、「眠りの森の美女」だ。
ジーンズのショートパンツから覗く素足が、歩道を跳ねていく。
サンダルがアスファルトを蹴って、軽やかに音を立てた。
ぴょんぴょん。短い髪も、飛び跳ねている。
もう、すっかり乾いていた。
「また行けるといいね!」
暁が、にこにこ振り返った。
碧が、きっぱり首を振る。
「いや。俺は、もういい」
「えー! なんで?」
言い合う声が、西センターを離れていった。
そのとき。
西センターの大画面に映し出された映像を、小さな男の子だけが見ていた。
白い衣裳のバレリーナが、舞っている。
背景は真っ黒だ。音楽も流れていない。
幼児は、目を真ん丸にしていた。
母親は、知人と立ち話に夢中だ。
エントランスホールにいる他の利用客も、てんでに行き交っている。
なんで?
おかおが、まっしろだ。
めも、はなも、くちも……なんにもない。
しってる。これ、おばけだ。
「おかーさん!」
耐えかねて、男の子は母親の手を引っ張った。
「なあに? どうしたのよ、いったい」
その時。
さっきの女の子が、電子案内板のパネルを、焦ったように引っぱたいた。
ぱっ
消えた。
大画面には、いつもの地元広告が流れている。
「あのね、のっぺらぼうなんだよ」
舌足らずな声に、母親と知人は、顔を見合わせた。
今まさに、新たな西センターの七不思議で盛り上がっていたのだ。
「あら、よく知ってるわねえ」
【1.ガルニエ宮 終】
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