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15.キノコ(1)
目に映る世界が、ぼんやりと、ぼやけている。
音楽が、遠くで聞こえている。
なんの曲? 聞いたことがある。
だけど、思い出せない。
夢なのかな?
暁は、そう思って、即座に否定した。
夢なら、こんなに疲れない。
自分の手が、足が。ああ、それだけじゃない。
体の全てが、勝手に動いている。
いいかげん止めたいのに、止められない。
誰かが勝手に、自分の体をめちゃくちゃに動かしているのだ。
両脚が、じんわりと熱い。
しびれるような感覚。
……なんだっけ? これ、前にもあった。
頭に霞がかかっているみたいで、はっきりと考えられない。
碧に聞いたら、一発なんだけどな。
耳も、変だ。
何かが、耳の穴に詰まっている気がする。
気持ち悪い。取り除きたいのに、手は自分の自由にならない。
疲れた。足が、死ぬほど痛い。
こんなに酷使したのは、生まれて初めてだ。
空手の稽古だって、ここまで追い込んだことはない。
もうやめて。休ませて……。
ガルニエ宮の劇場で。観客のバロメーターを担う椅子は、ぽんぽん、景気よく積み上がっていた。
あっという間に、道ができている。
椅子は、天井のシャンデリアに迫っていた。
さっきと比較しても、ずいぶんハイペースの施工だ。
「これ、もうすぐ完成だなあ」
「ああ。終点の椅子が乗っかったら、胡蝶の門出の完了だ」
スクリーンを見ている陽に、碧が苦々しく答える。
偽りの名声だ。
そんなものが欲しいのか、みかげは。
そんなもののために、暁を犠牲にして憚りないのか。
ジゼルのヴァリエーションも、フィニッシュを迎えようとしていた。
軽やかに、少女が円を描いて舞う。
くるくる
コマのように回転しながらだ。スカートが落下傘みたいに膨らんでいる。
正確なのに、速い。卓越したテクニックだ。
痛い! もうやめて!
ジャン!
曲が終わった。
ぐらり
暁の体が、傾いだ。
ほんの少しだった。ミスともいえないほどの。
最後の椅子が、まさに飛び上がろうとしていたところだった。
ぴたり
素早く呼応して、それは動きを止めた。
なんという厳しさだろう。
『胡蝶の門出は、失敗しました』
「あー」
ロージュの小部屋に揃った面々は、同時に声を上げた。
同じ言葉だが、複雑な重奏となった。
惜しい。残念。反射的に反応した大多数と。
いや。よかったんじゃない、これで?
碧と二郎の冷めた反応が、入り混じっている。
それでも、みんな、一様に複雑な表情を浮かべて、ステージを見下ろしていた。
音楽は、鳴り続けている。
演者も止まらない。ステージでは、なぜか演技が続行していた。
『リーチがかかったため、コンティニューの権利を得ました。演目は、狂乱の場まで続行されます』
案内板が、そう告げる。
ラストチャンス、敗者復活戦みたいな状況らしい。
「じゃ、そこまでやっても、終点の椅子が動かなかったら、どうなるんだ?」
碧が、淡々と胸元の花に尋ねる。
腹立たしいが、把握しておきたい。
『完全な失敗となり、そこで終了です』
「なるほどなあ」
陽が頷いた。
無限にチャレンジできるわけではないらしい。
「どっちにしろ、そこで、みかげの気も済むか。ああ、でも、別にそこまで待ってやる義理もないな。どのみち、不正受験みたいなもんだろ」
ぶつぶつぶつ
ごおおぉ……
呟く碧の体を、怒りの炎が包んでいる
静かに怒り狂った碧は、相当に怖い。
部屋に詰まった巨大白鳥ですら、怯えている。
前回の湖で、碧に睨まれた『1』『3』の奇数コンビだ。
「まったく、暁も、なに言うこときいてるんだか……」
脅されたのか。
いや、泣き落とされたか。同情したのか。
そっちのほうが、大いにあり得る。
ずっと黙っていた桃が、意を決したように話しかけた。
「あのね、碧。暁が変なの」
「あいつはいつも変だよ」
「そうじゃなくて。暁は、あんなふうに笑わない。暁が笑う時は、ほんとに自分が楽しい時だよ」
桃が、一番じっくりと暁の様子を見ていたようだ。
碧も、改めてスクリーンに目をやった。
暁の顔には、完璧な微笑が張り付いている。
美しく朗らかな村娘、ジゼル。
舞台に上がって、その演技をしているのだから、当然だ。
でも、確かに、おかしい。
口元は、柔らかく弧を描いて、笑っている。
それなのに、目はどうだろう。不自然に、ぱっちりと見開かれている。
ちっとも楽しそうに見えない。
「なんだか、目が映ろな気がするの」
重ねて主張する妹に、陽もスクリーンを見た。
碧に頷いてみせる。
顔に、「俺もそう思う」と書いてある。
そうか……。
碧も気付いた。
暁は、決して、こんな目をしない。
いつだって、暁の目は、生き生きと生気に溢れている。
そうだ。笑っている時は、目が細くなって、かわいい三日月みたいになるんだ。
自分が物心ついたころから、いつも傍にあった笑顔だ。
だから、わかる。
違う……。なんだろう、なにかが違う。
陽は、バルコニーから身を乗り出した。
直接見た方が、なにか分かるかもしれない。
ステージを動き回っている暁を、目で追う。
遥か上の、しかも後ろから、覗きこんでいる状態だ。
「耳だ。何か付いてるみたいだなあ」
いや、なんで、ここから見えるんだ?
いつものことながら、碧は恐れ入った。
原始時代の狩人のような、驚異の視力だ。
自分が見たって、分かりっこない。
素早く諦めて、碧は案内板に頼ることにした。
「暁、じゃなかった、ジゼル役の耳をクローズアップして映して」
変な指示だが、明確だ。
すぐに、映像が接近していく。
はっきり映し出された。
キノコだ。



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