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2.オニコイ
鬼の嫁攫い──
昭和40年代の日本に於いて、よく知られた怪異だ。
ある宵に、「鬼」が家にやって来る。
その家の嫁を要求し、差し出さねば災いをもたらすのだ。
連れ去られた嫁は、もちろん帰って来ない。
だけど警察に届けたって、相手にはされないそうだ。
「神隠しみたいなもんですからな。役所で離縁の手続きをされては」
「鬼」──
特に人間と敵対しているわけでもない。
恐ろし気な容貌に反して、実際に悪さをする事件はほとんど起こっていないのだ。
おおっぴらに出て来るのは、この嫁攫いの時くらいである。
大仏真維の実母、一枝も嫁攫いにあった。
3年前、真維が8歳の時だ。
今晩と同じように、お母さんは喪服を着ていて。それから、あのときは青鬼がやって来て。
そうだ。最後に言った言葉も、同じだった。
『真維、ごめんなさいね……』
うん、やっぱりおかしい!
「お父さん、私ちょっと付いて行ってくる!」
きっぱりと言い放つ娘に、父親はのけぞった。
「まままま真維、やめなさい、祟られるぞ」
「お嬢様、お靴はこちらでよろしいですか」
女中の麻さんだ。いつの間にか傍に控えていて、さっと革靴を揃えてくれる。
靴ベラも、流れるような所作で差し出された。
普段通りの仕事っぷりだ。
「ええ、ありがとう麻さん」
対する真維も、躾けられた通り、大らかに礼を述べる。
「外はまだ寒いですので、カーディガンをお召しになっていって下さい」
さっと肩に掛けられる。
麻さんは、髪こそ真っ白だが、きびきびした所作は年齢をまったく感じさせない。
ただの女中というより、頼れる婆やなのだ。
それにしても、女二人は、この異常事態に対して、まるっきり通常運転である。
アワアワしているのは、父親だけだった。
嫁攫いも二回目。さらに真維は溺愛する一人娘なのだから、無理もない。
真維は、玄関を飛び出した。過保護な父親に止められたらかなわない。
屋敷の玄関前に集まっていた野次馬は、とうに散っていた。
皆、関わり合いたくはないのだ。
そう時間は経っていない。
すぐ先に、駕籠が行くのが見えた。
昭和の今では時代劇でしかお目にかからない、前時代の乗り物である。
あれだ。
赤鬼が舁棒を担いで走って行く。
「ほいっ」「えいっ」「ほいっ」「えいっ」
野太い掛け声に、通行人は皆ぎょっと道を空けていく。
「おらおら、退いた退いた~!」
「じろじろ見たら祟られるぜえ!」
作務衣姿の赤鬼が、威勢よく怒鳴る。
言われるまでもなく、人々は顔を背けた。
子供は、親指をぎゅっと拳に握り込む。
霊柩車を見たときと同じ仕草だ。
どこもかしこも真っ黒な駕籠。
皆、知っているのだ。
中に囚われている女に待っている運命は、死であると。
それにしても、さすがは鬼。桁外れの膂力であった。人一人乗せた駕籠を軽々と担いで走って行く。
人間の駕籠かきではあり得ないスピードだ。
そして、それに遅れず追っていく者がいた。
可愛いワンピースを着た少女である。
ぱっちりとした目。通った鼻筋。愛らしい顔立ちのお嬢様なのに。
迷いのない走りっぷりだった。革靴を履いているのに、国体選手にも負けないフォームで、かっ飛ばして行く。
「うわ!」
「きゃっ」
スナックから出て来た客とホステスが、悲鳴を上げた。出会い頭に駕籠とぶつかりかけたのだ。
ばっ……!
非常識なスピードの駕籠は、非常識な動きで避けた。宙に飛び上がると、通りの真ん中に降り立ったのだ。
そこは車がビュンビュン走る場所だ。
だが、何事もなかったように、車に混じって走り出す。
ぎゅいん!
続いて、真維も回避した。
客とホステスは、引き続き度肝を抜かれた。
人間にはあり得ない急速カーブである。
さらに、少女まであっさり加速すると、駕籠にぴったり付いて行く。
後ろからやって来たタクシーの方が遅いくらいだった。
暴走する駕籠と少女は、土ぼこりを上げて、瞬く間に遠くなっていく。
居合わせた人々は、呆然とした顔で見送った。
「今の……普通の女の子だったわよね」
「いやあ、べらぼうに速かったなあ!」
「大丈夫なのかねえ、鬼なんか追っかけて」
「お母さんでも攫われたんじゃないのかい? 可哀そうにねえ」
しかし、同情に溢れた声に申し訳ないほど、真維は溌剌と走り続けていた。
「まだ余裕! もっと速くても平気!」
体育は得意なのだ。
級友や先生にドン引きされることもあるくらい、非常識なレベルで。
雲梯を三段飛ばし。
登り棒を二秒で制覇。
走り幅跳びでは、砂場を遥かに越えて着地。
この春に卒業した小学校では、ほぼ伝説と化していた。
無理も無い。実際に目にした者でなければ、信じがたい所業である。
今も同様だ。白百合の如き美少女が、どんなにスピードアップしても付いて行く。
ほとんどホラーである。
車道をかっ飛ばす赤鬼の駕籠は、いきなり目にも止まらぬ速さで左折した。
何かの施設だろうか。閉じていた門扉が開いて駕籠を迎え入れた。
──誰もいないのに。
がっしゃん!
真維の目の前で、門扉が閉まった。
「う……わっ」
まともに突っ込むところだ。
すんでのところで急停車した真維は、そこでようやく気が付いた。
【大江山女子中学高等学校】
「……あ、あれ?」




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