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4.グランフェッテ・アン・トゥールナン(2)
乗客がいた。
この世界では絶対に存在しない、非常識な面々である。
ペラペラの、セピア色人間。
薄ピンク色のネズミ(人間大)。
のっぺらぼうのバレリーナは、奥側の壁に付いた鏡の中で、ふよふよ浮いている。
しばらく、双方が無言で見つめ合った。
「どうぞ、下に参ります」
ペラペラ人間が促した。
エレベーター嬢のように、開ボタンを押したまま待っている。
「あ、いや、乗りません」
碧が、あっさりと首を振った。
さすがに三度目ともなると、冷静だ。
さっと、弾丸娘の襟を引っ掴む。
これで防御は完璧だ。
「……碧」
猫の子みたいに摘ままれた暁が、目で訴えた。
自分の足を見ている。
こっちも消えていた。青白い光が、あとかたもなく。
陽が、ずいっと前に進み出た。
「おい、碧。いかのおすしだぞ」
いかのおすし。
防犯教育の標語である。
知らない人には、ついていか(イカ)ない。
知らない人の車に、乗(ノ)らない。
碧は、しっかりと頷いた。
もちろん知っている。
この場合も準用すべきだろう。
「ピンク色のネズミには、ついていきません」
碧は、断固たる決意を込めて言い放った。
「エレベーターにも、乗りません」
桃が、あっけにとられた顔をした。
碧、どうしちゃったんだろう?
エレベーターは、空っぽだ。
なに? ピンク色のネズミって?
お兄ちゃんも変だ。
もっともだ、と顔に書いてある。
だが、陽達の目には、久しぶりに会うオネエネズミの姿が映っていた。
名は、マダム・チュウ+999。
普段はネズミサイズの筈だが、今日は既に大きい。
脇の体内ポケットに、何か嵩張るものを入れているのだろう。
入れたら伸びる、冗談みたいな体なのだ。
でーん
入口の真ん中を塞いだ巨大ピンクネズミは、嫣然と笑いかけた。
ウインク付きだ。
ばっち~んと、バサバサの箒が音を立てる。
必殺オネエ攻撃に、碧が震えあがった。
だが、勇者は存在する。至近距離で秋波を送られたにも関わらず、陽は動じなかった。
「ごめんね、マダム・チュウ+999。俺たちは行かないよ」
優しい声音だ。
どんな相手であろうとも、陽が居丈高に振る舞うことはない。
しかし、紳士的な対応が裏目に出ることもある。
この場合、「いかのおすし」の「おすし」も実行するべきだったのだ。
大声をあげる(オ)
すぐ逃げる(ス)
誰かに知らせる(シ)
そう、この通りに。
エレベーターホールにいる他の人々は、平穏そのものだった。
桃と同様、見えていないのだ。
それでも、子どもが叫んで逃げ出したとしたら、助けてくれただろう。
「あらん、そう。残念だわあ~。じゃ、行きましょ、みかげ」
野太い男の声で、ピンクネズミは喋った。
軽い口調だ。全然、残念そうに聞こえない。
ペラペラ人間の顔に、苛立ちが浮かんだ。
セピア色のインクで描いたみたいな顔が、憎々し気に歪む。
すると、背後の鏡で、変化が生じた。
真っ黒に塗りつぶされた鏡面の中で、バレリーナが動き出したのだ。
初めてだ。いつも、ふよふよ棒立ちしているばかりだったのに。
本日の「のっぺらぼう」は、純白のクラシックチュチュに、ピンク色のポアント。
頭に、ふわふわした羽飾りも付いている。
白鳥の装いだ。
鏡の中の舞姫は、優雅に両腕を伸ばした。
それから、自分の方に招き寄せる仕草をする。
これは踊りじゃない。マイムだ。
『こっちに、』
女の子の声が、響いてきた。
鏡面からだ。
もう一度。鏡の中のバレリーナが、手招くマイムをした。
声が、繰り返す。
『こっちに、来て』
「こっちに、来て」
あまりの驚きに、碧の息が止まった。
ちがう。みかげだ。喋っているのは!
確かに見た。
音声と同時に、セピア色の口が動いていた。
それに、声。
そうだよ。これは、みかげの声じゃないか。
「碧。あの、のっぺらぼうは、」
陽も、同時に気付いたらしい。
「うん。みかげなんだ」
碧が答える。
「みかげ、ちゃん?」
暁が、目を見開いた。
言われて気付いた様子だ。
「暁、こっちに、来て」
『暁、こっちに、来て』
「おい、絶対に行くなよ!」
碧が、後ろから暁に抱き着いた。
恥じらっている場合じゃない。
服の襟を掴むより、確実に拘束する方法に替えたのだ。
今までの付き合いから、いやってほど思い知らされている。
暁を本気で確実に抑えたかったら、実力行使しかない。
ところが。思わぬところから、小さな声が上がった。
「あたし、先に行くね」
「桃ちゃん?!」
しまった! 桃はノーマークだ!
「待て! 桃、乗るな!」
「お兄ちゃん、大きな声出さないでよ。恥ずかしい」
ぺしっ
桃は、兄の手を払いのけた。
いい加減にしてよ。
さっきから、何をふざけてるんだろう。
自分だけ除け者にして。
暁も、おかしい。
いつも年下の自分に優しくて、仲間外れなんて絶対にしないのに。
どうして、お兄ちゃんと碧を止めようとしないの?
怒るより、泣きそうだった。
桃は、虚を突かれた兄を放置して、さっさとエレベーターに乗り込んだ。
真正面からだ。そこには、ピンクの巨大ネズミが立っている。
すっ
桃の体が、マダム・チュウ+999を通り抜けた。
「えっ?」
碧が愕然とした。
ちょっと待て。
今日のピンクネズミは、立体映像なのか?
「桃!」
一拍置いて、陽が追い縋った。
すると。
ぼよん!
まともに弾き飛ばされた。
膨らんだ巨大な風船に、真っ向から飛び込んだ格好だ。
「うわ!」
陽が吹っ飛んだ先に、暁と碧がいた。
支え切れるわけがない。
よろめいた碧の腕枷が、外れた。
「桃ちゃん!」
解き放たれた暁が、すぐさまエレベーターに飛び込んでいく。
まさに弾丸だ。入口を塞いだ巨体の、わずかな隙間から滑り込んだ。
障害物競走も向かう所敵なしの、暁ならでこそである。
陽も、劣らず反応が速い。続いて後を追った。
「ごめん」
断ってから、巨大なネズミの体を押す。
退かした所から、乗り込んだ。
あっぱれなジェントルマンだ。
マダム・チュウ+999の目が、ハート型に煌めいてしまう。
「桃、暁、今すぐ降りろ!」
陽が、二人の腕を掴んで叫んだ。
そして、ふっと横を見て、仰天した。
「碧~! なんでお前まで乗ってるんだ」
「だって、みんなが行っちゃうから!」
こんな時まで、豊かな協調性を発揮しなくてもよろしい。
「とにかく、みんな降りるんだ」
「どうして? お兄ちゃん」
「桃ちゃん、陽じゃなくて俺が後で説明するから」
「ごめん、降りまーす。どいて~」
エレベーターの籠内は、大混乱だ。
はっきり言って、マダム・チュウ+999が邪魔だった。
膨れた体が、入り口に蓋をしている状態である。
「あらん、待って頂戴。こっちに退けばいいのかしらん。いえ、こっち?」
全て無視して、みかげがペラペラな手で「閉」ボタンを押した。
ポーン
音を立てて、エレベーターの扉が閉まった。
万事休す。
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