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7.オーケストラボックスの泉(1)
異様な光景だった。
これじゃあ、オーケストラボックスじゃない。
オーケストラ・プールだ。
普通のオーケストラボックスなら、暁も碧も見たことがあった。
幼少期から、暁の母親によって、問答無用で観劇に連れて行かれているからである。
英語圏の正式な名称は、オーケストラ・ピット。
要は、ステージの真下に造られている、掘り下げられた空間だ。
開演前に覗き込むと、オーケストラの面々が準備に勤しんでいる。
その様子が見たいから、いつだって、暁は客席に着く間もなく駆け寄って行くのだ。
でも、オーケストラボックスが無い劇場もあった。
建物の新旧や、大小は関係ないようだ。
暁の母、曰く、
「単に色々や」
とのことである。
ともあれ、これだけは確かだ。
どんな劇場であろうと、水なんか張っていない。オーケストラボックスには。
「綺麗だね」
いつのまにか、暁は床にうつ伏せで寝転がっていた。
ステージのギリギリ端っこで、頬杖をついて水面を覗き込んでいる。
両脚は、バタバタ楽しそうに泳いでいた。
緊張感ゼロである。
やれやれ。
まあ、いいか。ちょっと疲れたし。
碧も、隣にしゃがみこんだ。
改めて、オーケストラボックスを見下ろす。
確かに綺麗な水だ。
雨漏りの水が、間違って溜まってしまいました。なんてわけじゃない。
澄んだ水が、たっぷりと際まで張られている。
貯水設備みたいだ。
だが、これはオーケストラボックスで間違いないのだ。
碧が確信するだけの根拠はあった。
なぜなら。水面には、様々な弦楽器が浮かんでいるのだから。
まるで、煌めく泉に、茶色い葉っぱが散らされているような光景だった。
木の面を晒した弦楽器は、水の上に整然と並んでいる。
オーケストラの配置だった。
いったい、どうして……。
「そっか! ここにあるのかな?」
暁は、いきなり飛び起きた。
屈みこむと、サンダルのマジックテープを、ベリッと剥がす。両足、同時にだ。
次の瞬間には、蹴り飛ばされたサンダルが、水揚げされた魚みたいに宙を舞っていた。
すっかり考え込んでしまった碧は、しゃがんだまま、ぶつぶつ呟いている。
「そもそも、なんで水が溜まってるんだ? 楽器なんて、濡れちゃいけないだろ」
当然の疑問だ。
はっと気づいた時には、事態は動いていた。
「ちょっと待って暁!! なんで脱いでるの!?」
碧は、目を剥いて叫んだ。
声が裏返っている。緊急事態だ。
暁は、今まさに着ているTシャツをまくり上げたところだった。
ちょっと待って。どころじゃない。
フリーズ。そのまま、それ以上動くな。
そりゃあ、保育園までは、一緒くたになって着替えていた。
だが、もう小学5年生である。
なんだ、その躊躇の無い脱ぎっぷりは。
暁は、けろりと碧を見返した。
一応、脱ぐのを止めて、Tシャツの裾を元に戻す。
そっか。説明しなきゃ、だめか。
「だって、この間、学校のプールで着衣水泳をやったでしょ。その時に、洋服は水を吸うと重たくなって、泳ぎにくくなるって分かったから」
「……ああ。確かにやったな、着衣水泳」
西小では、小学5年生の時だけにやる特別授業だ。
防災教育の一環で、ちゃんと消防署の人が講師に来てくれる。
もし、洋服を着たまま、海や川で溺れたら。
つまり、水難にあった場合を、学校のプールを使って実体験する講習なのだ。
碧の顔が、翳ってきた。
なんか嫌な予感がする。
「でも、そういう時には、じたばた泳いだりしちゃダメって言われたろ。服も脱がないで、浮いて待てって」
講習内容を正しくお復習いする碧に、暁は、にこにこ頷いた。
「うん! 溺れた時は、そうするんだよね。今は、トウシューズ捜したいから、泳いで潜らないと」
やっぱりか……。
碧は、頭を抱えたくなった。
つまり、このオーケストラボックスの泉に、どぼーんと入るおつもりなんですね。
幼馴染の男子に頓着せず、暁が続ける。
「それに、服が濡れちゃったら、帰るときに大変じゃない」
筋は通っている。
だが、羞恥心は不在だ。どこに行った。
「それに、碧は言いふらしたりしないでしょ」
にこにこ
暁の笑顔は、一点の曇りもない。
純度100%の信頼が、ストレートに伝わってくる。
ああ、もー。
碧は、さらに頭を抱えた。
きっと自分は、一生、暁には敵わない。
「分かった。じゃ、ちょっと待って」
疑問もツッコミも、全て保留だ。
とりあえず、現実に対処しよう。
碧は、まずオーケストラボックスの泉を確かめることにした。
身を伏せ、できるだけ乗り出して、つぶさに眺める。
水面は静かだ。さざ波一つ立たない。
透明な水の中に、生物の姿は見えなかった。
「危険なものがいそうなら、服を着ていたほうが防御になるけど……。なんにも、いなさそうだね」
「うん、大丈夫だね!」
間髪入れず、後ろのほうから、元気の良いお返事が聞こえて来た。
次に、浮かんでいる楽器を物色した。
一番大きなのは……あれだ。
「コントラバス、だったっけ。もし溺れそうになったら、あれにしがみつけばいいか」
「うん、分かった!」
よし。事前調査完了だ。
碧は、乗り出していた体を引っ込めて、立ち上がった。
パーカーシャツに手をかけて、少し躊躇う。
さすがに気恥ずかしい。
「……ちょっと、あっち向いてて、暁」
隣を見て、碧は絶句した。
いない。
乱雑に脱ぎ捨てられた洋服と、ひっくり返ったサンダル。あるのはそれだけだ。
ぼっちゃ~ん!!!
次の瞬間。ガルニエ宮の豪奢な空間に、派手な水音が響き渡った。
「……俺が行くって、最初に言っておくんだった」
後悔先に立たず。
波立つ水面を見下ろし、碧は再び頭を抱えた。
ひょっこりと、水面から暁の頭が出てくる。
「足が着かない。けっこう深いよ」
立ち泳ぎをしているらしい。両腕で大きく水を掻きながら言う。
「あーもーっ! わかった。なんか捕まるもの持ってきとくから!」
こうなったら、残りの人間は飛び込まない方がいい。サポートに回るべきだ。
碧は、素早く判断した。
上手側の舞台袖に、確かモップがあったよな。
いざというとき、柄を差し出して捕まるように用意しておこう。
走りながら、碧は自分に言い聞かせた。
まあ、このほうがよかったんだ、きっと。
暁の方が、俺より、はるかに泳ぎが上手いんだから……。
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