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9.貴婦人の恩赦(2)
「あれ?」
暁が、顔を上げた。
なにか、香りがする。
吹き抜けの方からだ。
どんどん、強くなっていく。
ああ、バラの香りだ。
どんどん、どんどん……。
ずざあっ!
いきなり、音をたてて、蔓が下から噴き出してきた。
ものすごい量だ。巨大な束になっている。
暁は、声を失って、ただ見つめていた。
緑色の大蛇は、一瞬だけ、宙で止まった。
だが、すぐに鎌首をもたげると、狙いを定めて突進していく。
Jの部屋だ。
「た、たいへんっ!」
暁は、慌てて立ち上がった。
全速力で走り出そうとする。
だが、できなかった。
よろよろしながら、暁は情けない声で呻いた。
「あ、足、しびれてる……」
「よっと!」
碧が、反物を引っこ抜いた。
ようやく成功だ。
板に巻かれた戦利品を床に下すと、棚に立てかけて置く。
ふう、と溜息が漏れた。
自分をずっと担いでくれている陽も、ほっとした顔で、見上げてくる。
そのときだった。
「碧、後ろ!」
暁の叫び声がした。後ろからだ。
え?
肩車の二人が、振り返る。
目の前に、緑の投網が広がっていた。
上の碧が、叫んだ。
「うわああ!」
血塗れの貴婦人だ!
二人が悟った瞬間、蔓の軍勢が一斉に攻撃を開始した。
ひゅんっ
音を立てて、緑色の投げ縄が、碧にだけ巻き付く。
ひゅん ひゅん ひゅんっ
高速で連投された。
あっという間に、緑の簀巻きだ。
まずい!
とっさに、陽が碧の両足をがっちりホールドした。
だが、まったく太刀打ちできない。
血塗れの貴婦人は、盗人のトーテムポールの上だけを掻っ攫っていった。
実行犯だけを的確に狙った、素早い仕事だ。
「ちょっと……待って……間違えてないってば! う、うわあああっ!」
碧の喉から、勝手に悲鳴が迸った。
あっという間に、手摺を越えた。
吹き抜けの空間を、仰向けの体勢で突き落とされていく。
遊園地のアトラクションみたいだ。
だけど、比べ物にならない恐ろしさである。
緑の蔓だけが、命綱なのだから。
手摺から身を乗り出して、陽が叫んでいる。
だめだ。全然聞こえない
ごうごう
耳元で、空気を切り裂いていく音だけが響く。
陽の姿が、どんどん遠くなっていく。
ぐいん!
唐突に、ぶら下げられる衝撃が、全身に走った。
ようやく止まった。
体の下に、固い感触がある。
終着点、貴婦人像の掌だ。
今度は、自分が、ぐるぐる巻きの芋虫の番だ。
眼鏡にまで、細い蔓が巻き付いていた。
顔から落っこちないように配慮してくれたようだ。
碧は、頭を捻って、下界を見渡した。
黒い岩肌が全く見えないほど、蔓が溢れ返っている。
ざわざわ
緑色の海面は、貴婦人の怒りで荒れ狂っていた。
赤いバラも、山ほど揺れている。
むせ返るほどの芳香だ。
「やっだー、ごめんなさい、碧!」
オネエな声が、上から降ってきた。
幼児ほどに膨れたピンクネズミが、遥か上から、こっちを見下ろしている。
雑だが献身的な暁の看護で、すっかり回復した様子だ。
「オーキッド・ピンクじゃないわ。オーロラ・ピンクなのよお!」
「なんだよ、それ?! そんな色あるの?」
碧は、声を限りに叫んだ。
これが叫ばずにいられようか。
「あるのよ~。アタシ、そう書いたと思うんだけど、間違ってたかしら?」
いや、それ以前だ。そもそも読めなかった。
碧が言い返す前に、暁が声を張り上げた。
「ごめんね、碧! マダム・チュウ+999は、唸っただけなの。私が、早とちりしちゃった」
ネズミの隣で、謝る。
心から申し訳なさそうだ。
「悪かったわねえ、碧」
ネズミも謝った。
こっちは、なんだか軽く聞こえる。
その上、急かしてきた。
「ほらほら。早く、血塗れの貴婦人に謝りなさいな」
「なんで俺が!?」
芋虫の碧の顔は、怒り心頭だ。
「だって、放してもらわないと困るでしょ」
「でも俺が間違えたんじゃないよね! 俺は悪くないだろ! って、痛い痛い痛い!!!」
ぎゅうぎゅう
蔓バラが、容赦なく碧の体を締め上げた。
ぽんぽん!
赤いバラが、貴婦人像の顔に花開く。
米神のあたりだ。怒りのマークを形作って並ぶ。
「あー、怒ってるなあ」
「うん、怒ってる」
「怒らせちゃったわねえ、まずいわよ」
ネズミは、やっぱり他人事のようだ。
ともあれ、手摺に並んで見下ろす暁達には、どうにもできない。
ぴゅう
そこへ、金色の欄干から、一本の水が矢になって放たれた。ド・ジョーだ。
「おい、よく聞け、碧」
至近距離で、重低音の声がした。
碧は、蔓で拘束された体を捩った。
黄金色のドジョウが、目の前で顰め面をしている。
「いいか。たとえ自分が悪くなくても、だ。謝っちまった方が、上手くいく場面があるんだ。そんな時はな、プライドは引っ込めろ。こう思え。自分は今から術を使うんだ、ってな」
「なんの術だよ?! 忍者かよ?!」
碧は食って掛かった。
ド・ジョーの声は、重々しい。
返答も深かった。
「処世術だ」
碧は、一瞬、押し黙った。
「……なにバカなこと! って痛い痛い痛い!!! わかった! わかったから! ごめんなさい、間違えました、正しくはオーロラ・ピンクです、オーキッド・ピンクじゃありませんでした、ごめんなさい!」
ほぼ一息に、がなり立てる。やけくそだ。
ピンポン ピンポォン
音が流れた。
正解です。
赤いバラが、口元に移動する。
にっこり
血塗れの貴婦人が、微笑みを形作った。
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