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3.プレパラシオン(1)
私のなりたいものは、たった一つ。
ずっと目標にしてきた。
一生懸命、頑張ってきた。
ガルニエ宮の舞台。
7枚の鏡が、弧を描いて立っていた。
誰の姿も見えないのに、7つの同じ像が、それぞれの鏡に映し出されている。
白鳥の湖、オデット姫の衣裳姿だ。
黒髪は、お団子にまとめて、すっきりと華奢な肩のラインを見せていた。
ばっちり決めているのに、ちょっと変だ。
みんな、トウシューズを履いていない。
愛らしい出で立ちに反して、鏡像達の表情は暗かった。
微笑の欠片も浮かんでいない頬。
不満を滲ませた目つき。
固く引き結ばれた唇。
鏡の中にいる少女の口が、動いた。
「悔しい。どうして私が落ちるの?」
「納得できないわ。あの子なんて、私よりずっと下手くそだったじゃない」
「ひいきだわ。結局、気に入った子しか合格させないのよ」
「あんなにレッスンしたのに」
「あんなに頑張ったのに」
「落ちるなんて」
7人の像は、鏡の中から、てんでに吐き散らした。
憎々しげに。
ある像は、自分の体を両腕でかき抱きながら。
ある像は、両手で顔を覆って。
それぞれに涙を流して。
豪奢な劇場は、静まり返っていた。
か細い怨嗟の声が、しんとした空間に響く。
ちらっ
セピア色が、ちらついた。
少女だ。そこにいた。
鏡に囲まれて立っている。
フィルムみたいにペラペラな姿だ。
見えづらいが、同じ衣裳を着ているようだ。
そして、やはりトウシューズは無い。
舞台の上で、V字にカットされた背中を観客席に晒し、立ち尽くしている。
うなだれて。
「クラシックバレエの研究所?」
「うん。清水先生がね、やる気があったら入所試験を受けてみないかって」
「みかげ。あなた、西センターのバレエ教室にも行ってるでしょう? 清水先生がご担当されているからって」
やる気満々の娘に、母親が渋った。
「本来のバレエスタジオと、西センターと、研究所? 三か所に通うつもりなの?」
「ちがうわ。受かったら、研究所だけにする。一本に絞ってレッスンを受けた方が、絶対にいいもの。それに、コンクールにも積極的にチャレンジさせてくれるんだって」
その台詞が、母親にとっては決定打となった。
だとしたら、いいかもしれない。
三歳から、スタジオに通わせた。
時間も労力も、相当に費やしている。
もちろん、費用もだ。
始めた頃の友達は、もう全員いなくなってしまった。
小学校受験で欠け。数年後、中学受験で更に欠けた。
残った数人も、一人づつ去って行った。
転居、部活、塾。理由は様々だ。
そして。そろそろ、習い事として続けるには、限界が来ていた。
なにしろ、スタジオには同レベルの子がいない。最近では、ほとんどマンツーマン指導だったようだ。
プロの道に進んでいくのか。
その資質はあるのか。
試される。いい転機かもしれない。
『わたしのゆめは、ばれりーなになることです』
幼い娘は、人前で言い、作文に書き、七夕の短冊に必ずそう記して育った。
母親として、自分にできることは、全て果たした。
後ろで、ずっと見守り。
横に立って、一緒に話を聞いた。
前に座り、娘の踊る晴れ姿を見続けた。
応援したいと思う。
だが、その膨大な時間は、客観的な情報を得て、冷静に考える時間にもなった。
私の夢は、バレリーナになることです。
「ほんの一握りなのよ。みかげ」
最後にできたのは、慰めの言葉をかけることだけ。
でも、その言葉は、ただの残酷な現実。
みかげの心に、ぐっさりと突き刺さったまま、今も抜けない。
分かってる!
でも、その一握りに入りたかった!
選ばれた中で、さらに光り輝く、エトワールになりたかった。
唯一無二の、光り輝く星に。
ゆっくりと直進し、鏡に近づく。
すると、ぺらぺらだった体は、どんどん厚くなった。セピア色も、徐々に色づいていく。
端っこの鏡から、少女の像が消えた。
隣からも。
順々に、いなくなっていく。
真ん中に置かれた鏡の前で、みかげは立ち止まった。
ぺらぺらな姿は、もうない。
純白のチュチュを身に纏った少女だ。
でも、やっぱりトウシューズは無い。
また、なくなってしまったから。
踊りたい。その純粋な気持ちが、もう湧き上がってこない。
「嫌なの、もう、自分でいるのが」
ぼそり
みかげは呟いた。
鏡の縁に、小さなお面が付いている。
7枚の鏡のうち、真ん中のにだけ、案内板があるのだ。
ピエロは、青い顔に貼りついた赤い笑みを浮かべている。
『近く、宴が催されます。エントリーは、早めにされた方が有利です』
尋ねてもいないのに、音声が流れ出た。
そう。そうなのね。
じゃあ、宴まで、ずっとここに捕らえておけば、安心ね。
「嫌なのよ、もう、自分でいるのが」
みかげは、繰り返した。
ブンッ
鏡面が、いきなり黒く塗り潰された。
目の前に映っていた像が、かき消える。
「私がなりたいのはね、私がなりたいのは、」
パッ
そして、再び少女の像が現れた。
同じだ。白鳥のチュチュ。
だが、ちがう。
足には、ポアントがあった。
さらに、足全体が、なぜか青白く光り輝いている。
そして、顔も違った。
生き生きとした目。
血色よく、バラ色に染まった頬。
歌い出しそうな、楽し気な赤い唇。
ふふ。そうよ。
みかげが、口の端を吊り上げた。
「この子」
それは、暁の顔だった。
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