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10.夢の小石(2)
バシュッ
光線が、音を立てて壁に当たった。
だが、失敗だ。狙っていた小石とは違う。
光っている石にヒットした場合、光の矢は跳ね返るだけなのだ。
「ごめん。また、当たらない……」
桃は、小さな声で黒鳥に謝った。
さっきから、何度外したことだろう。
一回だけ成功したのは、完全に、まぐれだった。
目の前には、こんなに光っていない小石があるのに。全然、進まない。
「気にしなくていいですよ。手は、まだ離せなそう?」
4の首輪をしたマッチョ・スワンズは、優しく尋ねた。
「うん……ごめん、ムリ」
桃の右手は、しっかりと輪っかを握りしめていた。首輪の鞍に付いたハンドルだ。
これでも、進歩したのだ。
まず、両手で掴まっているのを、左手だけ放す。
それができるようになるまで、かなりの時間を費やしてしまった。
だって、怖い。落っこちちゃいそうで。
自分は、右利きだ。自由になった左手でレーザーポインターを操作しても、命中率は望めない。
せめて、左手で輪を掴んで、右手で撃てばいい。分かってるんだけど。
右手を放すのは……やっぱり怖い。
「そうですね……。少しリラックスして、まずは乗っているのに慣れることにしましょう。急がば回れ、とも言いますし」
桃は、素直に頷いた。
ポインターの横に付いている突起を、一番下に下げる。これでパワーオフだ。
そうしてから、きちんとポケットにしまう。
片手でやってるから、自分でも嫌になるくらい、のろくさい。
「ゆっくりでいいですよ、桃」
黒鳥さんって、すごく優しい。
「ありがと。もう、だいじょうぶ」
すい~
スワンは、ゆっくりと泳ぎ出した。
桃は、慌てて、両手で輪っかを握り直した。
大丈夫、大丈夫。お母さんの自転車の後ろに乗ってるのと同じだ。
乗り心地は、こっちのほうがいい。
それに、なんていい景色なんだろう。
桃は、改めて周りを見渡した。
澄んだ湖面は、大きな鏡のようだ。
その上を、美しい黒鳥が滑っていく。
取り囲んでいる壁は、さながら巨大なプロジェクターだった。色づく紅葉を、ぐるりと映し出している。
「きれいね」
やっと、桃が笑みを浮かべた。
切れ長の黒い目が、柔らかく下がる。
「来れてよかった。怖かったけど」
もしも、あんな絶叫系フリーフォールアトラクションが待ち構えていると知っていたら、絶対に来なかった。
「そういえば、貴殿らは久しぶりの客人です。どうやってここまで?」
マッチョ・スワンズ4号が、尋ねる。
「あのね、西センターのエレベーターに乗ったら、透明なエレベーターに変わったの。そこから、時の筒を落ちてきた」
碧達三人は、西センターの時点で、異変に気付いていた様子だった。
「エレベーターには、ペラペラな女の子も乗ってて、その子が無理やり誘い込んだみたい」
碧の言動が、蘇る。
「みかげ、って呼んでた。いなくなっちゃったんだけど、どこ行っちゃったのかな」
「ああ。そいつは胡蝶だから。この地宮の、どこにでも行けるのです。肉体を持たない、意識だけの存在だから」
黒鳥は、即答した。
住人にとっては、簡単な謎解きだったらしい。
「こちょう?」
「ええ。我々は、ずうっと、そう呼んでいます。こんな話があるのです」
中国の、古い話だ。
名は、荘子。思想家だった。
彼が、こんな夢を見た。
自分が胡蝶、つまり一羽の蝶々になって、舞い遊んでいる夢だ。
はっと目覚めた。
起き上がる。
周囲を見渡すが、周りにあるのは、見慣れた調度品ばかりだ。
夢だったのか……。
ふう、と息をついた。
掌で目を覆って、首を振る。
寝汗をかいていた。軽く走った後のように。
いや。本当に夢だったのか?
覚えている。薄い羽根を震わす感覚を。
空を掻き上がる動きも。
私は胡蝶だった。
そうだ。そして、この今の私こそ。
胡蝶の見ている夢なのではないだろうか?
「この夢の世界には、人間の意識が、しょっちゅう迷い込みます。寝ている時に来て、大抵は夢だと思い込んでいる」
ガルニエ宮の舞台に。
百階建ての、双子の迷宮に。
そして、この嘆きの湖に。
蝶は、姿を現す。
「昔は、蝶だけでした。ところが、つい最近からです。いろんな姿の胡蝶が、やって来るようになったのは」
みかげのように、ペラペラな影。
白い煙が、人の形をしている奴にも会いました。
真っ黒な、煤の固まりにも。
そして、厄介なのは、蜂です。徒党を組んで、うわんうわん飛び交う。
「それでも、胡蝶は、しばらくしたら姿を消します。ああ、ピョートルには会った?」
「うん」
永えのピョートル。
そういえば、彼も言っていた。
夢で、この世界に迷い込んだと。
マッチョ・スワンズは、うにょんと頸を曲げて振り返った。桃に笑いかける。
とってもハンサムさんだ。鳥だけど。
「あの御仁は、例外中の例外です。胡蝶のくせに、もとから人の姿をしていたのです。そして、そのまま、この世界に居座った。そんなの、あの御仁だけです」
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。
バレエ音楽を多く手掛けた、作曲家。
「きっと、この世界を創り上げた者の一人だからでしょう。そして、ここにいたい、という意思があった。ただ舞うだけの蝶ではない。人間の創作欲、しかも並外れたやつを持って、この夢の世界に帰化したのです」
話をしつつ、桃を乗せた黒鳥は、湖を静かに進んで行った。
前方に、暁がいる。
壁に向かって、光線を発射していた。
孤高のガンマンも青ざめるほどの、早打ちだ。
「暁!」
桃は、思い切って、右手を放してみた。
手を振って、すぐに戻す。
ちょっとだけど、できた。
暁が、笑顔で振り返った。
ぶんぶんと、両手を振って応える。
レーザーポインターは、凶器だ。
それを持ったままだから、かなり危ない。
両手を放すのなんて、暁にとっては、ハードルでもなんでもないんだろう。
たとえ、湖に転げ落ちたとしても。暁のことだ、びしょ濡れで大笑いするに決まっている。
ふう
ため息が漏れた。
「どうしたの?」
桃の乗っているスワンは、つくづく優しい質らしい。ゆっくり泳ぎながら、気遣わし気な目を向けて来る。
桃は、笑みを浮かべて、首を振って見せた。
時の筒で見た、みかげの夢を思い出す。
たぶん、私は分かる。
他人が、あっさりとできることが、自分にとっては飛び越せないハードルになることが、しょっちゅうだから。
どうして、私だけ、できないんだろう。
情けなくて。羨ましいなって思う。
その気持ちが、たぶん私には、よく分かる。
「案内板が復旧したら、アクセスを尋ねて、すぐに帰ったほうがいいでしょう。ここは美しいが、危険な場所です。客人にとっては」
「まろうど?」
「古い言葉です。お客人のことを、我々はそう呼んでいる。胡蝶とは異なり、体ごと、ここに迷い込んだ者のことです」
確かに、自分達がそうだ。
「ここに来るのは、客だけではない。迷宮の財宝目当てに、根性で辿り着く人間もいます。昔から。そいつらは、盗人という」
なるほど。お客さんではない。ただの泥棒だ。
思わず笑ってしまった。
だが、マッチョ・スワンズは固い表情だ。
「どうしたの?」
「帰れなくなることがある」
ぽつり
幼い子供が訴えるように、黒鳥は呟いた。
ここには、決まった帰り道が無いのだから。
「帰れなくなったら、客人も盗人も胡蝶も、みんな、おんなじです」
この迷宮に、閉じ込められる。
永遠の虜囚となって。
出口を求めて舞い続ける小さな者は、いつしか疲れ果てて、堕ちるだろう。
もう動けない。だが、誰も救わない。
その末路を、つぶさに目にしたことは無い。
ただ、気付くのだ。
もう、どこにもいないと。
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