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6.エントリー(1)
ぷはあっ
水面に出た。
どぼん、と落っこちた時。陽は、何が何でも上着を離さないつもりだった。
だが、水中で、すぐに気付いた。
碧が、その先にいない。握ってた筈だけど、手を離しちゃったか。
母親の般若と化した顔が脳裏に浮かんだが、ここは己の命優先だ。
即座に、上着とは「さようなら」して、水を掻き上がってきたのだ。
どぼん、さようなら、ぷはあっ。
そのくらいしか、時間は経っていない。
だが。
水から頭を出したら、違う世界だった。
「どこだ、ここ?」
西センターのエントランスホールではない。
それだけはわかる。
すぐ近くに、碧の頭が浮いていた。
あっぷあっぷ、水を掻いている。
よかった。無事だ。
ひとまず、ほっとした。
ぎこちない泳ぎっぷりだが、こっちも似たようなものだ。
濡れた服が、ずっしり重い。
しかも、冬の長袖と長ズボンだ。
手足が思うように動かない。
その上、この水は冷たかった。凍えそうなほどだ。
陽の声が聞こえたのだろう。
碧は、苦労してこっちを振り返った。
眼鏡をしていない。あの衝撃で吹っ飛んだらしい。
「ここは、ガルニエ宮だ。オーロラの地宮にある、劇場で、」
そこまで答えたところで、ずぶずぶと頭が水没してしまう。
陽は、慌てて碧の体を支えた。
「ここは、オーケストラボックスだ」
助けてもらいながら、碧は早口で続けた。
ずぶ濡れの髪は、ぺしょんとなってしまっているが、中身の頭はしっかりしているようだ。
なるほど。ここが、そうか。
碧から聞いていた通りだ。
茶色い弦楽器が、前にも後ろにも横にも、ぷかぷか浮いている。邪魔だ、とっても。
「暁は?」
陽が鋭く尋ねる。姿が見えない。
「手、離れちゃったんだ。水の中で」
碧が唇をかんだ。
引きずり込まれたとき。離すまいと、必死に力をこめたのに。
ぐわっ
急に、音を立てて下から水が突き上げてきた。
すごい勢いだ。体がふわっと浮いた。
あっという間に、太く短い水柱になる。
碧と陽は、それに乗っかる形になった。
ぐんぐん、高くなっていく。
ド・ジョーだ!
「おらよ! 妹も連れてきたぜ!」
果たして、金色の魚体が、ぽちゃんと二人の間に跳ね上がった。
その言葉と同時に、水柱の横から、手がにょっきりと生えてきた。
水で出来た、大きな手だ。
桃を握っている。
巨大な手は、ちょん、と桃を水柱に乗っけた。
優しい動きだ。役目を果たすと、しゅるしゅる水柱に引っ込む。
「桃、大丈夫か?」
桃も、同じくずぶ濡れだ。
結わえた髪が、水にぬらした筆みたいになって、顔の両端にぶら下がっている。
「……大丈夫、これなら大丈夫」
必死に目を見開いて、そう繰り返している。
いつもより、さらに小さな声だ。呟きに等しい。
兄に答えているというよりは、自分に言い聞かせているのだろう。
遊園地のメリーゴーラウンドに乗った時と、同じ反応だ。
「急げ! みかげは、先に暁を連れていったぞ! 畜生、気付いて追っかけて来たんだが、間に合わなかったぜ」
真ん中にいるド・ジョーは、低い声で急かした。
まだ動揺している桃は可哀そうだが、一刻を争う。
湧き上がった水柱は、水で出来たエレベーターのように、三人を乗せて上昇していく。
ステージと同じ高さまで上がった。
見えなかった舞台が、視界に入ってくる。
「みかげだ!」
陽が叫んだ。
「行け!」
ド・ジョーも叫ぶ。
ざっぷん
同時に、三人の乗った水柱が崩れた。今度は水の滑り台だ。ステージの上になだれ込む。
勢いよく放り出されて、とっさに反応できたのは、陽一人だった。
その勢いを無駄なく使い、ころころと転がるだけ転がると、そのまま低い姿勢から走り出していく。
舞台の奥だ!
みかげは、背中を向けて立っていた。
片腕で、暁の体をひょいと横抱きにしている。
外見は、普通の女の子に戻っているのに、中身は違うらしい。
抱き枕でも抱えているみたいな様子だ。
みかげの正面には、扉があった。
2枚に分かれている。両開きのドアだ。
ただし、巨人仕様だ。
舞台奥の壁に付けるにあたり、可能な限りの高さを取りました、というサイズだった。
そして、壁ごと、ちょうど半分に色が分かれていた。
右半分の扉側が、白色。
左半分が青だ。
フラットな扉だから、目立たない。一見、ツートンカラーの壁が、一面に広がっているように見える。
みかげは、取っ手に触れた。
それも、扉の大きさに比例していた。長い棒状のハンドルだ。
これも、ぱっと見、分かりにくい。扉と同じ色に塗られている。
みかげが触れたのは、左側。青色の取っ手だ。
『花束の宴にエントリーしますか?』
すると、声が降ってきた。
綺麗ではっきりとした、女性アナウンサーみたいな音声だ。
上だ。扉の上に狭く残っている壁に、飾りが描かれている。
声は、そこから流れて来るらしかった。
赤い薔薇の絵だ。
巨大な一輪一輪が、弧を描く形で集まっている。まるで口紅を塗った唇のように。
「はい」
みかげが、答えている。
なんだ、それ?
こんな扉、前にはなかったぞ?
碧の頭に、ぐるぐると疑問が巡る。
猛ダッシュしながらだ。息がつらい。
でも、暁を取り戻さないと。
陽は、何馬身も先を爆走している。
間に合うか?



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