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6.エントリー(2)
『お名前をどうぞ』
みかげに抱えられた暁は、やっぱり濡れ鼠だった。ジーンズも上着も、ぐっしょりだ。
短い髪から、水滴が顔にぽたぽた落ちている。
目は、ぐったり閉じられていた。
意識を失っている。さらにまずい。
暁を横抱きにしたみかげは、答えた。
「加羅みかげ」
ちゃらーん
チャイム音だ。
鳴った瞬間に、みかげが、がっと片手で扉を横に動かした。
引き戸だったのかよ!
碧と陽は、同時に思った。
だが、口に出す余裕は、二人ともない。
軽々だった。こんな大きさの扉、相当に重い筈なのに。
隙間が空いた。さっと、みかげが入る。
巨大な扉が、すぐに閉まっていく。
「待て! みかげ!」
陽が、どなった。
「暁!」
後ろから、碧と桃の声が重なる。
桃がこんなに早く走れるなんて、碧も知らなかった。
気付いたら、自分と並走している。
細い隙間から、みかげが、こっちを見ていた。
きちんとしたワンピース。艶やかな長い黒髪。革靴もおしゃれだ。一部の隙も無い。
泉にどぼんとつかって、人さらいを一丁してきた筈なのに。
やっぱり、この世界では、みかげは生身の人間ではないんだ。
もう、ペラペラ人間は卒業したみたいだけど。
今度は、ただ理想的なお嬢様の姿を取っているだけなんだ。
碧が導き出した推論に、陽と桃も同意をした。もちろん、今ではない。
全員がゆっくりと呼吸をし、酸素の供給が脳みそに追っついてからだ。
必死に駆け寄る三人の目前で、みかげの姿がどんどん隠れていく。
その唇が、うすら笑いを浮かべた。
がっちゃん
巨大な引き分け戸が、音を立てて閉まった。
がんっ!
ばしぃっ!
その直後に、扉が二つの音を奏でた。
陽が体当たりしたのだ。
同時に、ド・ジョーが放った水の矢が、空しく撥ね返る。
だが、両方とも遅かった。
扉はびくともしない。完全に閉まっている。
だが、陽は諦めなかった。
そのまま物も言わずに、青色のハンドルを引っ掴む。
「ふんっ……!」
力の限り引っ張った。
これさえ開けばいいんだ。
すぐにみかげに追いつける!
後から来た碧と桃も、同じく考えたらしい。二人とも飛びついてきた。
棒状の引手に、三人の手が並ぶ。
上から、陽、碧、桃の順番だ。
「せーのっ」
陽の掛け声。
三人で、きゅうきゅうにくっ付き合って、引っ張った。まるで綱引きだ。
でも、こんなに勝ち目のない相手とは、かつて勝負したことがない。一ミリも動いた気配がないのだ。
「開か、ないっ……」
桃が呻く。
なんでこんな掴みにくいハンドルなんだろう。
扉から、お世辞程度に浮き上がって、くっ付いている。
四角い棒状のくぼみが、壁側にあった。この引手が、すぽんと蔵えそうだ。
「隣は?」
碧が、白い扉を目で指し示した。
そっちなら開くかもしれない。
「よし!」
陽が手を離した。コートチェンジだ。
すると、超低音の声が制止した。
「やめろ。無駄だ。白い側は開かねえぜ、今はな」
ド・ジョーだ。
扉のハンドルにかじり付いていた面々は、振り返った。
見ると、木の床に一筋の川が走っていた。
舞台前方から、ここまで伸びてきている。
よく見ると、二本。水の流れは、行きと帰りがあった。
オーケストラボックスの泉から湧き上がった水路は、舞台の奥でUターンして、また泉へと戻っている。
そのU字の部分に、金色のドジョウは立っていた。
苦虫を嚙み潰したような顔だ。
「ド・ジョー、どうやったら開くんだ?」
陽が、小走りで近寄った。
運動靴ごと即席の川に突っ込んでしまったが、どうせもう靴下までびちょびちょだ。
しゃがみ込んで、ド・ジョーに問い質す。
「宴にエントリーする者にしか、この扉は開かねえ。だがな、宴を観に行くアクセスは、他にある。そこで暁を助け出すんだ」
碧と桃も、寄ってきた。
碧は、ド・ジョーの水柱に体をかぶせるようにして、目を眇めている。
眼鏡無しだと、小さな魚の表情を捉えるのは厳しい。
「ああ、ちょいと待ってな」
その様子で察したド・ジョーが、胸ビレをくいっと動かした。
ついーっ
川上から、眼鏡がこっちに流れて来る。
到着すると、小さな水柱が沸き上がった。
上に眼鏡が乗っかっている。
回転寿司で注文した皿が届いたみたいだ。
「ありがと、ド・ジョー」
よかった、壊れていない。
受け取って、すこし躊躇したが、そのまま掛けた。
濡れてるけど、どうせ拭くものなんて無い。
よし、見える。
「みかげは何を企んでる?」
碧は、まっすぐにド・ジョーを見つめて言った。
今回は、強引に暁を攫っていった。
そもそも、みかげはなぜ、執拗に暁をこの世界に連れ込むのだろう?
まだ、何か企んでいる。
そして、それには恐らく、暁が必要なんだ。
それが、碧の出した結論だった。
ド・ジョーは、溜息と共に吐き出した。
「俺にも分からねえ。あいつは、もう囚人だ」
この世界に囚われてしまった、哀れな胡蝶。
「自分のポアントもない。それなのに、宴に出演して、どうするんだか……」
桃が、小さな声で尋ねた。
「宴って?」
そうだ。さっきも聞いた。扉の赤い唇が、そう言っていた。
ド・ジョーは、三人の顔を見渡した。
水で出来たトレンチコートとソフト帽が、金色の体を飾っている。
胸ビレを手の代わりにして、地宮の住人は奥の扉を指し示した。
「あの扉が、ガルニエ宮の舞台に現れる、そのとき」
バレエに寄せる思い、注がれる愛が、数多の人から集められ、どんどん溜まって。
そう。人の世界はグラスなのだ。そこから、零れんばかりになったときに。
「宴が開かれる」
ド・ジョーが告げた。
それが。
「花束の宴だ」



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