カイコン(総フリガナ版)

19.それぞれの夜(総フリガナ版)

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19.それぞれの夜よる

「上(あ)がって~。旦那(だんな)は遅(おそ)くなるって言(い)ってたから、ゆっくりしていきなよ。夕(ゆう)ご飯(はん)食(た)べた?」
「うん」
返事(へんじ)をしながら、ミイが背(せ)を向(む)けた瞬間(しゅんかん)、框(かまち)に上(あ)がる。
ニゴちゃんは、タイミングを合(あ)わせて自然(しぜん)にブーツを分離(ぶんり)してくれた。まるで普通(ふつう)の靴(くつ)みたいに。
しかも、こっそり自分(じぶん)で動(うご)いて方向(ほうこう)を変(か)え、両足(りょうあし)を揃(そろ)えている。マナーのいい子(こ)だ。

ちさとは、部屋(へや)を見渡(みわた)した。
綺麗(きれい)に片付(かたづ)いている。誰(だれ)もが憧(あこが)れる、文化(ぶんか)住宅(じゅうたく)だ。
食卓(しょくたく)に置(お)かれた皿(さら)には、レースを張(は)った蝿帳(はいちょう)が被(かぶ)せてあった。おしゃれだ。

「それ、旦那(だんな)の分(ぶん)よ。私(わたし)は済(す)ませてる」
ミイは、椅子(いす)に座(すわ)るように促(うなが)すと、お茶(ちゃ)を入(い)れ始(はじ)めた。
心(こころ)なしか、蝿帳(はいちょう)を端(はし)に寄(よ)せる手(て)つきが乱暴(らんぼう)だ。

「いらないかもしれないのにね。用意(ようい)していないと、機嫌(きげん)が悪(わる)いの」

ちさとは、眼(め)をぱちくりさせた。
いつも明(あか)るいミイが、鬱屈(うっくつ)した表情(ひょうじょう)をしている。こんな顔(かお)、見(み)たことない。
小柄(こがら)な体(からだ)から常時(じょうじ)迸(ほとばし)っている活力(かつりょく)も、なんだかダウンしている。

「旦那(だんな)さんと上手(うま)くいってないの?」
ズバンと聞(き)いた。
女(おんな)友達(ともだち)だ。遠慮(えんりょ)なんてない。
「うん、そうなの。ケンカ中(ちゅう)」
即答(そくとう)だ。全(まった)く飾(かざ)らない。

「あたしも働(はたら)くって、結婚(けっこん)する前(まえ)に言(い)ってたのになあ。炊事(すいじ)も洗濯(せんたく)も掃除(そうじ)も、結局(けっきょく)やるのは私(わたし)だけ」

ミイは、溜息(ためいき)をついた。
「手伝(てつだ)って欲(ほ)しいって、言(い)うたびにケンカ。結局(けっきょく)、あいつはよく分(わ)かってなかったんだよね。共(とも)働(ばたら)きするっていうのが」

「恋愛(れんあい)結婚(けっこん)でしょ。理解(りかい)がある人(ひと)かと思(おも)ったけど……」
ちさとは、首(くび)を傾(かし)げた。
淹(い)れてもらった焙(ほう)じ茶(ちゃ)が、手(て)の中(なか)で湯気(ゆげ)を立(た)てている。温(あたた)かい。

「う~ん、なんだか全部(ぜんぶ)私(わたし)が悪(わる)いみたいになっちゃって。うちの親(おや)まで、とっとと辞(や)めて子(こ)どもをつくれって」

ああ……、ニゴちゃんが怒(おこ)ってる。
着(き)ている服(ふく)が、カーっと発熱(はつねつ)してきた。
ジャンプスーツの胸元(むなもと)に、かすかに模様(もよう)が浮(う)かんでしまっている。三角(さんかく)に尖(とが)った目(め)だ。

「ミイは悪(わる)くない」
はっきり口(くち)にした。自分(じぶん)の相棒(あいぼう)も、こう言(い)いたいに違(ちが)いない。

ふっと、友人(ゆうじん)の顔(かお)が綻(ほころ)んだ。
身(み)に付(つ)けたシルクイーンも、スーッと放熱(ほうねつ)していく。

「ありがと、ちさと。ごめん、愚痴(ぐち)っちゃって。お持(も)たせで悪(わる)いけど、コッペ食(た)べよ」
「ご飯(はん)食(た)べたけどね」
「でも食(た)べちゃう」

ふふふ
女(おんな)二人(ふたり)、忍(しの)び笑(わら)いを交(か)わす。

白(しろ)いペラペラの紙袋(かみぶくろ)が、仲良(なかよ)く二(ふた)つ。
どちらにも、ふかふかの細長(ほそなが)いパンが入(はい)っていた。
縦(たて)に入(はい)った切(き)れ目(め)に、真(ま)っ赤(か)なジャムがたっぷり挟(はさ)んである。
あの頃(ころ)と、ずっと変(か)わらない。けち臭(くさ)くないところが最高(さいこう)だ。

「おいしいね、やっぱり」
微笑(ほほえ)む友人(ゆうじん)の顔(かお)は、ちょっと変(か)わった。
はしっこさを溢(あふ)れさせた、おきゃんな目鼻(めはな)立(だ)ちが、大人(おとな)の落(お)ち着(つ)きを備(そな)えてきている。
そして、疲(つか)れている。

「甘(あま)さが体(からだ)に染(し)みる~。あ~あ、家事(かじ)もさ、もっと便利(べんり)になればいいのに。勝手(かって)に掃(そう)除(じ)してくれる掃除機(そうじき)とか~、洗(あら)って乾(かわ)かして畳(たた)んでくれる洗濯機(せんたくき)とか~」

「すごいね、それ。SF小説(しょうせつ)みたい」
ちさとが返(かえ)すと、ミイが真顔(まがお)になった。

「家事(かじ)の手間(てま)が減(へ)れば、もっと負担(ふたん)が減(へ)ると思(おも)うんだよね……」
「そういえば、洗濯機(せんたくき)って買(か)ったの?」
「一番最初(いちばんさいしょ)に買(か)ったわ。無(な)かったらムリだもん。月賦(げっぷ)だらけだけどね」

確(たし)かに、テレビや冷蔵庫(れいぞうこ)も置(お)いてある。最新(さいしん)設備(せつび)だ。これ全部(ぜんぶ)、月賦(げっぷ)で買(か)ったのか。

二人(ふたり)で働(はたら)いてるから、なんとかなるんだろう。
でも、赤(あか)ちゃんを産(う)むとなったら?
働(はたら)きながら育(そだ)てる、なんて可能(かのう)なのかしら。

「そういえばさ。集(しゅう)会所(かいじょ)の鍵(かぎ)、念(ねん)のため借(か)りてきたんだけど。今夜(こんや)は使(つか)う?」
ミイに言(い)われて、ちさとは思(おも)い出(だ)した。
この前(まえ)は泊(と)まらせてもらったんだっけ。

「また借(か)りていいの?」
「うん。あたし、団地(だんち)の役員(やくいん)やってるし、大丈夫(だいじょうぶ)!」
清々(すがすが)しいほどの職権(しょっけん)乱用(らんよう)だ。

「でもさ、畳(たたみ)だけど、お布団(ふとん)なんて無(な)かったでしょ。うちに泊(と)まったら?」
「新婚(しんこん)家庭(かてい)に泊(と)まれますかい」
おどけて言(い)いながら、後(うし)ろめたい気持(きも)ちに襲(おそ)われた。
それ以外(いがい)の理由(りゆう)もあるのだ。

でも……、いい機会(きかい)かもしれない。
もう、潮時(しおどき)だ。
ちゃんとした人生(じんせい)を歩(あゆ)んでいる友人(ゆうじん)に、ネコ耳(みみ)の自分(じぶん)が付(つ)きまとっていたら。
いいことなんてない、きっと。

「じゃ、有難(ありがた)く借(か)りるね。ミイは明日(あす)お仕事(しごと)でしょ? 新聞(しんぶん)受(う)けに鍵(かぎ)を返(かえ)しておくから」
「オーケイ。朝(あさ)、会(あ)ってる時間(じかん)は無(な)いけど、いいかな」

うん、と頷(うなず)いて、自分(じぶん)でキッチンの流(なが)しに湯呑(ゆのみ)を置(お)いた。
そろそろお暇(いとま)しなくては。
いいかげん、旦那(だんな)さんも帰(かえ)って来(く)るだろう。

「……あのね、ミイ。しばらく会(あ)えないと思(おも)うんだ。ごめんね」
玄関先(げんかんさき)で切(き)り出(だ)したが、すぐに俯(うつむ)いてしまった。顔(かお)を見(み)て言(い)うなんて、無理(むり)だ。

だって、ぴったりしたブーツが、足(あし)を入(い)れるだけで履(は)けるなんて、不自然(ふしぜん)でしょ?
室内(しつない)でも帽子(ぼうし)を被(かぶ)りっぱなしなんて、おかしいでしょ?

でも、ミイは何(なに)も言(い)わなかった。
前(まえ)だって。今日(きょう)だって。

ちさとは、顔(かお)を上(あ)げずに続(つづ)けた。
「お願(ねが)いがあるの。夜中(よなか)になったら、窓(まど)から集(しゅう)会所(かいじょ)を覗(のぞ)いてみてくれる? カーテンを少(すこ)し開(あ)けておくから。そうすれば、理由(りゆう)が分(わ)かると思(おも)う」

驚(おどろ)いて絶句(ぜっく)していたミイが、ようやく声(こえ)を出(だ)した。
「ちょ、ちょっと、ちさと!」

バタン!
あっという間(ま)にドアが閉(し)まった。

ミイが、慌(あわ)てて後(あと)を追(お)おうとする。
ドアを開(あ)けた。
だが、そこには誰(だれ)もいなかった。誰(だれ)も。

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