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10.ロージュ(2)
『まだ上演されません。前の演目になります』
いきなり、胸元から声がした。
「うわっ」
びっくりした。そうか、案内板だった。
碧は、室内を進みながら、胸に挿した青い花に話しかけた。
ちょっと暗くて、よく見えない。
「いいんだ。ここで待っていれば、加羅みかげが出てくるんだろう。それとも、入っちゃ駄目だった?」
『いいえ。どうぞご着席下さい』
それなら、よかった。
あらかじめ、下見ができる。
三人のなかで、碧だけは、この劇場を訪れたことがあった。
暁と共に、始めて「オーロラの地宮」に迷い込んだ時の話だ。
あの時は、ステージ側に出た。
舞台から二人で劇場内を見渡して、桁外れの豪華さに驚いたものだ。
客席側にも来れるんだな。
見下ろしてみても、やっぱりゴージャスだ。
陽と桃も、ロージュから広がった眺めに、言葉を失っている。
階下に、赤い布張りの椅子が、ずらりと並んでいた。脚は、黄金の凝った意匠。
一脚「おいくら?」って代物だ。
フロアーに、びっしり。上の桟敷席にも、置いてある。
ここの小部屋にも、同じ椅子があった。
三人で腰を下ろした。
でも、上等すぎて落ち着かない。
『くるみ割り人形 第2幕より、金平糖の精と王子のパ・ド・ドゥが始まります。エントリーは、金平糖の精、〇〇○』
碧は驚いた。
その後に続いた名前は、日本人だった。
聞き覚えがある。
確か、暁の母が熱弁を振るっていた。
近年稀に見るプリンシパルだと。
『天井をご覧下さい。登場です』
「は? なんで天井?」
三人の疑問を真っ先に口にしたのは、碧だった。
「……碧、見てみろ……」
椅子から立ち上がった陽の瞳が、驚愕に見開かれている。
劇場の天井には、巨大な絵画が飾られていた。
プラネタリウムみたいな、ドーム型の形状をしている。
そこには、星ではなく、バレエの名場面が、鮮やかな色彩で描かれていた。
「夢の花束」
マルク・シャガールによる、比類ない名作だ。
「あれ? 前回と違う?」
隣で、碧は首を捻った。
「くるみ割り人形」の絵が、一面に描かれている。
陽は、その豪華さに驚いていたわけではなかった。
そして、桃も気づいていた。
か細い声で、碧に伝える。
「……絵が、動いてる」
陽も、無言で頷く。
本当だった。
碧は、思わず眼鏡に手をやって確かめた。
ちゃんと掛けてる。
ざわざわと、絵が揺らいでいた。
よく見たら、絵は、点描だった。
同じ色の点。異なる色の点。無数の点が、広大な絵を描き出している。
ぱたぱた ぱたぱた
点の一つ、一つが、動いていた。
まるで、そう、生きているかのごとく。
華麗な音楽が、劇場内に響き渡った。
いつしか、オーケストラボックスの泉には、楽器が浮かび上がっていた。乗せた水柱が、楽し気に上下する。
前奏だ。
ばさあぁっ……!
凄まじいほどの羽音が、空気を震わせた。
絵からだ。
いや。絵が、飛び立った!
「蝶だ!」
碧が叫んだ。
あらゆる色の蝶が、天井から羽ばたいていく。
びっしりと、天上のドームを埋め尽くしていたのは、蝶だったのだ。
とんでもない数だった。
蝶の群れは、ステージを目指して飛んでいく。
薄い雲を形作って。
虹色に輝く天女の羽衣を、投げて広げたようだった。
だが、長く伸びた先は、ぼやけて無くなっていた。
ほとんどの蝶が、途中で姿を消していくのだ。
ほんの一握りだけが、ステージに辿り着く。
床に降り立った数羽の蝶は、しばらく羽を蠢かしていた。
動きが止まる。すると。
「人間に、なった……」
陽が、呆然と呟いた。
この目で見ていても、信じられない。
ステージには、衣裳を身に着けた踊り手が現れていたのだ。
何人も。きちんとポーズを取って、待っている。
舞台セットが、両袖から滑り出されて来た。
なんと人力だ。
それを押してきたスタッフも、人の形をしていた。
瞬く間に去っていく。素早い仕事っぷりだ。
舞台の準備は、整った。
ぱたぱた
そこに、最後の一羽が飛んで来た。
純白の蝶だった。他より、一回り大きい。
際立つ美しさだ。
羽ばたくさまも、他とは違った。
力強い。だが、優雅だ。
蝶は、舞台の中央に降り立った。
伸びやかに舞っていた白雪の羽が、ゆっくりと閉じられる。
そして。
音楽に合わせて、スタンバイしていた王子が、一人、腕を伸ばした。
すっ
細い手が、その上に重ねられた。
ティアラを付けた、金平糖の精だ。
純白の蝶は、人間になっていた。
「あのさあ、マダム・チュウ+999」
遠慮がちに、碧が切り出した。
ピンク色のネズミは、ちょこんと椅子に座っている。
三人とも立ち上がったままだから、赤い座面を占領中だ。
「なあに? 碧」
何かあった? とでも言いたげな表情だ。
だが、これは絶対に変だろう。聞くしかない。
「なんで、みんな反対向きなの?」
ステージの出演者は、みんな、こっちにお尻を向けているのだ。
舞台のセットまで、後ろ向きに置かれている。
「全員揃って、間違っちゃったのか?」
「あらん。だって、あっちに観客がいるんですもの」
こともなげに、地宮の住人は答えた。
あっち?
マダム・チュウ+999が指さしているのは、舞台奥の壁だ。
陽と桃も、視線を向ける。
青白二色の巨大な扉は、姿を消していた。
薔薇の唇も、無い。
のっぺりとした、ただの白い壁が広がっているように見える。
いや、よく見ると、そこに何か映っていた。
ちらちらしている。
碧は、眼鏡の奥で目を眇めた。
なんの模様だ?
うわあぁ……っ
歓声が、舞台の奥から、小さく聞こえてきた。
プリンシパルは、優雅に舞っている。
明らかに格が違う。素晴らしい踊りだ。
称賛の声が、じわじわと膨れ上がっていく。
わあぁー……っ
「観客なんだあ、あれ」
「見えるの、陽?!」
驚異の裸眼視力だ。
碧の目には、ゴマ粒を散らしたようにしか見えない。
ゴマ粒の一つ一つは、人間の顔だった。
男も、女もいる。人種も、年齢も雑多だ。
顔、顔、顔……。
それは世界中から集った、観客の群れだった。



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