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13.アクセス(2)
「なんだか、急に暗くなったみたい」
舞台袖に着くなり、暁は言った。
「さっきは、もっと明るかったよね」
トウシューズを捜したときは、床の隅々まで、問題なく見て取れたのだ。
今は、ぼんやり薄暗い。
離れた場所が、よく見えないほどだ。
「そうか、やっぱり……」
碧の方は、うすうす感付いていた。
「ステージもだよ。たぶん、ド・ジョーが退場してからだ。だんだん暗くなってた」
忍びやかに迫る、夕闇みたいに。
辺りは、気付かれぬうちに、明るさを失っていったのだ。
もう、お終いです。
お帰りの時刻ですよ。
なんだか、そんなふうに急かされている気分になる。
人気がない劇場は、今や、うら寂しい雰囲気を醸し出していた。
なまじアンティークなぶん、お化け屋敷感が半端ない。
一人じゃなくて、ほんとよかった。
碧は、内心、ほっとしていた。
ぼうっと、古びた鉄棒みたいな代物が、浮かび上がって見えた。
これが、件のバーだ。
「あった」
暁は、ずかずか近づいた。
「へえ、大きいね」
西センターの物とは、格が違った。
造りが、どっしりしている。
据え付けなのだろう。コロコロ移動する為のキャスターが付いていない。
安定性、ばっちりだ。
確かめると、暁はバーを握った。
いつの間にか、スポーツバッグは、たすき掛けにして、お尻の方に回している。
「よっと」
暁は、身が軽い。鉄棒も得意だ。
ぐいっと体を持ち上げると、滑らかな動きで前回りした。
くるっ
勢いよく、そのまま鉄棒の上に戻る。
空中前回りだ。
くるくる くるくる
苦も無く、連続で回ってみせる。
見ている碧は、色々と心配になってきた。
「いや、暁。俺、できないよ、それ」
情けないが、空中前回りは会得していない。
どうしても、鉄棒から体が落っこちるのだ。
「平気だよ。アクセスは、普通の前回りでいいんでしょ。碧も、やってみて」
ぶらぶらと、逆さまで止まったまま、暁が笑う。
物干し竿に干された、洗濯物状態だ。
碧は、意を決して、眼鏡を外した。
きちんとバッグの中に仕舞う。
稽古用に、スポーツ用の眼鏡も持ってはいるが、掛け替えるほどじゃないだろう。
一回、試してみるだけなんだから。
視界が精度を落とす。
碧は、そろそろとバーに近づいた。
二人、横に並んでも、ゆとりがある。
確か、これって、手を添えたり、足を掛けたりして使うんだよな。
空手教室の帰りがけに見た、バレエレッスンの光景を思い出す。
間違っても、これで前回りをしていた子はいない。完全に間違った使用例だ。
躊躇する気持ちを押し殺して、碧もスポーツバッグをお尻に回した。
バーを掴む。
「っしょ」
掛け声と同時に、碧はバーに上がった。
暁は、床に降りて、傍に控えた。
もしも失敗したら、サポートする構えだ。
メガネ無し、バッグ肩掛けだしね。
「碧のペースでいいよ。ムリしないで、普通に回ってみせて」
馬鹿にする気持ちは、微塵もない。
それが分かるから、碧も素直に頷いた。
くるんっ
慎重に、碧が前回りした。
暁の速度には、遠く及ばない。
だが、危なげなく一回転すると、床に着地した。
「うん、できるよね」
じっと見つめていた暁は、満足気に微笑んだ。
うん、わかった。そのくらいの速さだね。
碧は、辺りを見渡してから、唇を尖らせた。
「やっぱり、なんにも起こらないじゃん」
壁が抜けて通路が出来るとか、ドアが現れるとか……。
期待したような変化は、なに一つ起こっていない模様だ。
「二人同時に、目をつぶって、前回り。だったよね」
皮肉っぽい碧の口調なんか、気にする暁ではない。
元気に反論すると、再びバーを握った。
すいっ
もう、スタンバイOKだ。
「今のは練習。じゃ、やろ!」
碧を見下ろしてくる暁の顔は、屈託なく笑っている。
遊んでいる時と、まったく同じだ。
おいおい。
メガネを掛けていない碧の顔が、盛大に引き攣った。
この危機的状況を、本当に分かってるのか?
上手くいかなかったら?
結局、現実の世界に帰れなかったら?
じわじわと、怖い考えが心を蝕んでいく。
自分は、こんなに切羽詰まった気持ちなのに。
暁ときたら、なんだ。その、通常運転のピカピカした笑顔は。
急に、馬鹿馬鹿しくなってきた。
いいや、もう。
これがダメだったとしても、暁は決して諦めないだろう。
何度でも、案内板に尋ねて、試してみるに違いない。
そうだ。ちゃんと、帰れるまで。
だから……俺達は、必ず帰れる。
碧もバーを握って、えいっと上った。
二人の体が、バーの上で並ぶ。
「目、つぶるよ」
暁が促す。
「うん」
碧も目を閉じた。
何も見えなくなる。
隣りから、暁の掛け声がした。
「いっせーの」
碧も声を出した。最後がハモる。
「せ!」
くるん
二つの頭が、揃って回った。
速度、ぴったりだ。
下に向いた。その瞬間だった。
ぶにゃり
バーの感触が、いきなり変わった。
固い鉄が、柔らかく溶けたのだ。
ぶわっ
そして、膨らんだ。
「わっ?!」
悲鳴がユニゾンした。
驚きのあまり、二人とも、思わず目を開いてしまいそうになる。
だが、すんでのところで留まった。
まずい。バーを握っていられない。
超極太だ。
グーで握っていた手が、びろんとパーに伸びてしまう。
「わわわ、」
暁が焦る声が、横から聞こえてくる。
もちろん、碧もパニックだ。
下半身が、勢いのまま綺麗に弧を描いていく。
両手は離れてしまった。
目を瞑っているから、恐怖が倍増だ。
落っこちる!
二人の動きは、全て完璧に揃っていた。
「わーっ!」
悲鳴まで同時だ。
どさ
「あ……あれ?」
碧が、間の抜けた声をあげる。
意外なほど早くに、放り出された体が止まった。床だ。
もう?
おかしい。もっと高さがあった筈だ。
碧は、恐る恐る目を開けた。
まぶしい。ライトの光が入ってくる。
寝っ転がった至近距離に、バーがあった。
ずいぶん近い。
しかも、黒いクッションが、ぐるりと巻かれている。
これか。ぶよぶよしたわけだ。
自分の隣りに、暁がいた。
目をぎゅうっと瞑ったまま、仰向けになっている。
横に、レッスンバーの脚が見えた。
ずいぶん短くなっちゃっている。
それに、支える土台のスタンドが無くなっていた。脚が、床に直接ぶっ刺されている。
変な形だ。
まるで、ホチキスの芯をばらして、コの字のまま打ち付けたみたいな……。
がばっと、碧は起き上がった。
「暁! 起きて!」
カッ
暁が開眼した。瞬時に身を起こす。
独特な形のベンチが、視界に入った。
目の前に、ずらりと並んでいる。
聞き飽きた音声も、流れていた。
奥の壁、大画面からだ。
地元コマーシャルが、でかでかと放映されている。
その横では、見慣れた紅葉のタイル画が、ひっそりと壁に貼り付いていた。
しゃわしゃわしゃわ……
水音も聞こえる。
貴婦人の、スカート噴水だ。
横には、白鳥の銅像が立っている。
「碧、ここって……」
きょろきょろと見渡した暁が、顔を輝かせた。
床にお尻を着いたまんま、碧も冷静に辺りを見渡していた。
間違いない。
強張っていた碧の頬が、ようやく綻んだ。
「ああ。西センターのエントランスホールだ」