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32.初期化(1)
再び、静寂が戻った。
あれだけ荒れ狂っていたオーケストラボックスの泉が、ぴたりと止まった。
ぼこぼこに盛り上がった水面が、強制的に凪いでいく。
ほどなく、茶色い弦楽器が、元通りに浮かんだ。
木の葉をきちんと並べたみたいな眺めだ。
しゃん!
舞台袖に引いた幕も、しとやかに垂れ下がった。
くちゃくちゃに丸まったというのに、布地にはシワひとつ無い。
大急ぎでスチーマーを当てたかのような、綺麗な仕上がりだ。
見なくても、碧には分かっていた。
泉には、誰もいない。
カーテンにも、何も張り付いていない。
ばたん!
大きな音と共に、目の前の床が嵌まった。
下から、抜けた床が迫り上がってきたのだ。
穴が開いていたなんて、誰も気付かないだろう。
継ぎ目は、完全に紛れてしまっている。
初期化って、こういうことだったんだ。
全部、最初の状態に戻された。
地宮の住人は未だ登場しておらず、ステージだけが調えられている。
振り出しのコマだ。
「碧? 大丈夫か?」
立ち上がろうとしない。
陽は、訝しみつつ、碧の体を抱え起こした。
そんなにダメージは無かった筈だ。空手の稽古の方が、格段に荒っぽいのに。
ぎょっとした。
碧が、小さい時の顔をしている。
これは、あと5秒で泣き出すやつだ。
「ごめん、陽……。俺のせいだ。俺が何も考えないで、うんって言っちゃったから」
声は、既に泣き出している。
「って、今のか? いや、碧のせいじゃない! 前のときと同じで、退場したんだろ」
陽は、力いっぱい否定した。
泣かれては困る。
それに、どうしてだろう?
よく分からないが、碧は自責の念に駆られているらしい。
「退場じゃない。初期化しちゃったんだよ」
激しく首を振ると、碧の目から涙が零れ落ちそうになった。
感情とは別に、頭が冷静に動き出す。
そうだ。ド・ジョーが言っていた。
もうすぐ退場しなければならないと。
だから、きっと別離の時は訪れていた。
でも、その前に、自分が、違うボタンを押してしまったんだ。
「ちゃんと、さよなら、言えなかった。ありがとうも、」
言いたかった。
自分だけじゃない。みんな、そうだろう。
後悔が、涙を押しとどめるストッパーになっていた。
泣いちゃだめだ。桃にも、暁にも、ちゃんと謝らないと。
そこに、小さな声が聞こえた。
「うん、碧。私も言いたかった」
桃だ。いつの間に来ていたんだろう。
陽の隣で、そっと自分を見つめている。
桃の瞳が、ちょっと濡れていた。
碧が息を呑む。だが、謝ろうとする前に、桃は口を開いた。
「でもね、碧。言えなかったんだって、黒鳥さんたちには伝わっていると思う。だから、大丈夫」
小さく、桃は微笑んだ。
桃は、決してお追従なんか言わない。
その言葉は、いつだって偽らない、自分の気持ちだ。
陽も、力強く頷いた。
顔に、「その通りだから泣くな」と書いてある。
思ったことが、電光掲示板なみに出るのだ。
嘘の無い二人だ。
どれだけ、自分は助けられてきたことだろう。
改めて実感した。
やっぱり、最強の「はとこ」ペアだ。
そして、幼馴染も、こっちにやって来た。
腕を使って、ずるずると床を這ってくる。
けっこう怖い。髪が長かったら、オカルトの生霊そのものだ。
ふざけているわけじゃない。
もう、ちゃんと立って歩けないくらいなんだ。
暁は、ワニ歩きで力任せにゴールした。
顔を上げて、碧を見つめる。
真面目な顔つきだ。
整っている容貌が、更にグレードアップしている。
「私も、桃ちゃんの言う通りだと思う。大丈夫だよ、碧」
きっぱりと断言する。
暁は、いつだって、そう言うんだ。
大丈夫だよ、碧。
そして、ぱあっと笑った。
「あのね。ド・ジョー達には言えなかったけど、みんなには言えてよかった」
まさに、光輝くような笑顔だった。
十人のうち十人をメロメロにさせる、暁の必殺奥義。
「碧、陽、桃ちゃん。助けに来てくれて、ありがと!」
しかも最高出力だ。
だが、首から下は、じたばた、のたくっていた。
なんとか立ち上がろうとしているらしい。
だが、控えめに表現しても、上から踏んずけられて藻掻くカメだ。
たまらず、桃が噴き出した。
暁の謝辞に、こくこくと頷いて返す。
もう、泣き笑いだ。
陽が、顔と言葉の両方で返事した。
「どういたしまして!」
暁と拮抗する、いい笑顔だ。
ぽんぽん
碧のタキシードの肩を、陽の手が優しく叩いた。ゆっくりと離れていく。
……うん。大丈夫だ。自分で立てる。
涙の蛇口も、きゅっと閉まった。
声に出力できるほどの余裕は、まだない。
碧は、精一杯しゃんと立ち上がると、暁を見つめて、無言で頷いた。
口から出せない思いが、みるみる溢れてくる。
うん。よかった。心配したんだ。
これまでで一番に心配したんだ。
本当は大声で喚き散らしたいくらいだった。
暁は赤ちゃんのときからの幼馴染だ。
なんだよ。俺は結局、物心がついた瞬間から、こいつの心配をし続けてるんじゃないか。
だが、ひとつも言葉にならなかった。
でも、暁には、正確に伝わっていた。
碧の、震える手。噛み締めた唇。
赤く潤んだ目……。
どれだけ、碧は心配してくれたんだろう。
そして、自分を助けるために、何をしてくれたんだろう。
陽も、桃ちゃんも。
もういない、地宮の住人の皆もだ。
聞きたいな。
ちゃんと、ゆっくり、元の世界で。
見かねた桃が、手伝って体を起こしてくれた。
なんとか、ぺたんと座り込む。
「ありがと、桃ちゃん」
晴れて、みんなの顔を見渡すことができた。
言いたかった言葉が、自然と零れ出す。
「帰ろ、みんなで」



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