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9.貴婦人の恩赦(1)
「大丈夫? マダム・チュウ+999」
暁が、心配そうに駆け寄った。
だが、壁に激突したピンク色のネズミは、返事もできない。
外廊下の床に、ぺたんこになって伸びている。
まるっきり、ピンクの伸し餅だ。
ダンジョン特製の巨大な滑り台、シューター。
その滑り板は、東館地下90階の外廊下まで渡されていた。
手摺の上に乗っかったところで、ぶっつり、ちょん切れている。
ただし、滑り板の斜面は、終点の手前で数メートルほど水平になっていた。
これなら、滑り落ちてきた勢いが失われ、安全にシューターから降りることができる。
ただし、普通に滑っていれば、だ。
暁に続いて、碧も到着した。
ぴょんと着地する。
「あれ、冗談じゃなかったのか」
見事な転がりっぷりだった。
てっきり、俵転がしの芸かと思ったものだ。
伸し餅を発見すると、碧は吹き出しそうになった。
でも、さすがに笑っちゃ可哀そうだ。
ぐっと堪える。
「もろに、ぶつかったなあ」
陽も着いた。
しゅたっと、勢いよく飛び降りると、迷わずオネエネズミを抱き起こした。
優しく仰向けに横たえる。
かっこいい。そして、紳士だ。
マダム・チュウ+999が朦朧としていてよかった。
碧は、内心、胸をなで下ろした。
こんなことされた日には、誰だって惚れてしまう。
猛烈なアタックの末に、陽にネズミの彼女、なんてことになったら……。
恐ろしい。絶対に嫌だ。
それだけは絶対、断固阻止しよう。
碧は、一人、傍らで静かに誓っていた。
「ねー! ド・ジョー! マダム・チュウ+999が、大変なのー。こっちに来てー!」
手摺から身を乗り出して、暁が大声で叫んだ。
広大な吹き抜けに、SOSが響き渡る。
ぴゅー
それに応えて、上から水鉄砲が吹きつけられてきた。
金色のドジョウが、細く撓る水の上に乗っかっている。
マリンスポーツのフライボード状態だ。
「おう、なんだ。そいつなら、ほっときゃ、じきに膨れて元に戻るぜ」
風船でも潰れたかの言いようだ。
「そんなこと言わないで。冷たいお水を出せない? 冷やしてあげようよ」
暁は、ド・ジョーに頼むと、ポケットからハンカチを取り出した。
たいへん珍しい。
今日は、年に数回しかない、暁がハンカチを忘れていない日だ。
「ったく、しょうがねえな」
金色ドジョウが、手摺に飛び移った。
途端に、清水が流れ落ちる。お手のものだ。
冷たく濡らしたハンカチをおでこに乗っけると、マダム・チュウ+999は意識を取り戻した。
とはいえ、まだ、目にクルクル渦巻きが回っている。
「ありがと。悪いわねえ……。アタシ、ちょっと休んでるわ。あなたたちだけで取って来てくれないかしら」
「うん。そのほうが、よさそうだなあ」
陽が頷く。
暁も申し出た。
「陽、碧と行ってきて。私、心配だから、マダム・チュウ+999を看てる」
「やれやれ。甘やかす必要なんて、これっぽっちもねえんだがな」
手摺の上から、金色ドジョウが、呆れたように呟く。
途端に、オネエネズミに睨まれた。
弱って床に沈んでいるくせに、放つ視線が殺人光線だ。
ぴゅう
ド・ジョーが、水の矢に乗って去った。
逃げ足が速い。まさに矢のごとくだった。
それでも、清水は手摺から流れ落ち続けている。
実は、心配しているのかもしれない。
「碧、じゃあ、これ」
寝っ転がったまま、マダム・チュウ+999は、脇に手を突っ込んだ。
小さなメモ帳が出てくる。
「あなたに預けるわ。ここに書いてあるから。チュール30デニールよ。よろしくね」
さすがに、碧も神妙に受け取った。
「わかった。行こう、陽」
居残り組の一人と一匹は、揃って申し訳なさそうな顔をしている。
本音なんて、言える雰囲気じゃなかった。
心の中だけで、呟く。
大丈夫だよ。
逆に、早く確実に済みそうだから。
Jの部屋も、そっくり同じ作りだった。
くり抜かれた入り口から入ると、正面に棚がある。
またもや、布地が、びっしりだ。
「宝石の部屋も、あるんだよね。そっちも見てみたいな」
碧が、思わず本音を述べた。
さぞかし壮観だろう。布地なんかじゃ、つまらない。
「ああ、碧、パワーストーンとか好きだもんなあ」
碧のブレスレットを見て言うと、陽は、さっさと布地を探し始めた。
とにかく、他を触っちゃいけない。
あくまでも、目視で確認だ。
注意深く見ていると、反物を載せた棚板にも、文字表記があるのに気付いた。
金色のプレートだ。反物の板と同じく、複数の言語で記されている。
「碧、これ見ろよ」
「ああ。布地の種類が書いてあるみたいだ」
こいつはいいぞ。
二人は、互いに、にっこりした。
これなら、プレートだけをさくさくと見ていける。
【チュール30デニール】
「あった! この棚だ」
もう見つかった。声を上げる陽に、碧が頷く。
いいぞ、楽勝だな。
「碧、色は何だ?」
陽が尋ねる。
「ああ、待って」
それも大丈夫。碧は、マダム・チュウ+999のメモ帳を開いた。
読めない。
「そうだ。大丈夫じゃなかった」
ミミズが、酔っぱらって阿波踊りしているような字だ。
「オー……何だこれ? なんとか、ピンク、かなあ」
首を捻る碧に、陽が言った。
「じゃあ、ピンク系だ。上の方に並んでる。ちょっと見てみろよ、碧」
ひょい
陽が、碧を肩車した。
親しい「はとこ」同士だ。躊躇はない。
碧も遠慮がない。当然のように乗っかって、反物を直に確認し始める。
「あ、オーキッド・ピンクっていうのがある」
「それか。でも、確認したほうがいいよなあ」
陽は、いったん碧を下ろした。
「確かに。暁みたいな目にあうのは、まっぴらごめんだよ」
碧は、苦笑いを浮かべると、部屋の出入り口まで行った。
マダム・チュウ+999達のところまでは、戻らなくたっていいよな。
碧は、壁にくり抜かれた穴から、頭だけ出して叫んだ。
「ねー! マダム・チュウ+999! 色って何? オーキッド・ピンクで合ってる?」
外廊下の突き当りに、ピンク色の伸し餅が見えた。
傍らに、暁が、ぺたんと正座している。
看護人の任務を、鋭意続行中である。
ハンカチを手摺の滝に突っ込む。
もう、数度目だ。
キンキンに冷えた清水が、吸水性抜群のタオル地に染み込んだ。
ろくに絞らないまま、それをマダム・チュウ+999のおでこに乗っける。
床まで、べちゃべちゃだ。
「……う、ん……」
寝たままのネズミが、苦悶の表情で、か細い声をあげた。
北極海に頭から突っ込まれた夢でも見ているに違いない。
かじかんだ手をこすり合わせながら、暁はマダム・チュウ+999を覗き込んだ。
うん、って言ったよね。
正座したまま、碧に笑顔を向けた。
両手で、大きく丸を作ってみせる。
碧が、頷いて引っ込んだ。
伝わったらしい。
再び、肩車である。
碧は、陽の肩から伸び上がって、精一杯、手を伸ばした。
目当てのオーキッドピンクに、なんとか届く。
「んっと」
反物の板を掴んだが、ぎちぎちに積み重なっている。
引っ張りだすには、結構、力が必要だ。
ぐらり
「うわ」
碧が体勢を崩した。
慌てて、馬になった陽が、碧の足をホールドする。
「つかまえてるからさ、力いっぱい引っ張っちゃえよ」
「うん、わかった」
再挑戦だ。
肩車コンビは、体勢を立て直すと、また棚に向かった。
ふよふよ
緑の蔓が、その背後で揺れている。
まるで、判定を下す瞬間を待っているかのように。
だが、二人とも、全く気付いていない。
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