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9.地宮(2)
「……蝶がいたのか……」
ド・ジョーは、小さく呟いた。そう聞こえた。
視線は、鏡の方に向けられている。
声も表情も、苦虫を嚙み潰したようだ。
ちょうちょ?
暁と碧は、そっくり同じ動作をした。
辺りを見渡してから、首を傾げる。
どこにもいない。
見えるのは、鏡面に浮かんだ白いチュチュのバレリーナだ。顔は無いけど。
金色のドジョウは、水柱の上で、二人の子どもに向き直った。
碧も暁も、不思議そうな顔で見つめて来る。
「ポアントか……。暁、さっきのポアントは、ただの幻だ。本物じゃない」
「そっかあ」
暁は、がっかり肩を落とした。
だが、一秒後に上げた顔は、もう笑みを湛えていた。
非常に切り替えが早い。
「じゃあ、どっかにある?」
ド・ジョーが、虚を突かれた顔をした。
考え考え、口を開く。
「……そうだな。ここには、バレエに必要な物が、ほとんど揃っている。腐るほどある」
金色のドジョウは、水柱の上で腕組みした。
正確には、胸ビレ組みだ。
「だがな、靴だけは違う。自分の物しか無いんだ。ポアントでも、トウの無いバレエシューズでも、同じだ。自分に、踊りたいって気持ちがあれば、得られる」
「じゃあ、無くしちゃったらどうするの?」
首を傾げる暁に、ド・ジョーは素っ気なく言った。
「それきりさ」
「うーん」
向かい合った暁も、ド・ジョーに倣って腕組みした。
額にシワを寄せて、考え込む。
猿そこのけの、くしゃくしゃな顔だ。
金色のドジョウは、薄く笑った。
「まあ、それは自分自身の問題だ。暁のせいじゃない」
世慣れた大人の言いようだった。
「ここは、夢の作り出した世界だ。とりわけ、同じ夢を抱いた者が、吸い寄せられるように訪れる」
花の蜜に誘われる、蝶のごとく。
「だがな、夢は、叶うとは限らない」
ド・ジョーは、ばっさりと言い放った。
情け容赦がない。
着ている水製トレンチコートとソフト帽に違わず、ハードボイルドだ。
いきなり、ド・ジョーは、口調を変えて尋ねてきた。
「暁、碧。お前さん達は、自分の夢が破れたとしたら、どう思う?」
なんで、そんなこと聞くんだろう?
「えーっと、がっかり?」
不思議に思いながらも、暁は答えた。
「悔しい、かな……?」
隣に立っている碧も、律義に首を捻る。
二人とも、自らの経験を踏まえての返答ではないのは、明らかだった。
教科書から出された問題に、ただ、頭で考えて答えている。そんな様子だ。
合ってる? と、幼い目が尋ねている。
ド・ジョーの眼差しが、柔らかくなった。
頷いて、話を続ける。
「そうだ。それが当然だな。だが……」
ド・ジョーは、奥に視線を投げた。
さっきより大きな声が、劇場に響き渡る。
「がっかりだ。ああ、悔しい、悔しいと嘆いてばかりいるのは、危険なのさ。いつか、夢に閉じ込められてしまう。よくあることさ」
おい、ちゃんと聞いていろ。
お前に話しているんだ。
まだ……、まだ間に合うのだから。
「自分の靴を無くしたのなら、もう帰ったほうがいい。お前の靴は、お前の意思だ。もし、暁が靴を得たとしても、それは暁の物なのだから」
あれ?
暁は、目の前に立つドジョウ先生に聞いた。
「ねえ、ド・ジョー。私がポアントを手に入れることはできるの?」
「ん? ああ」
肯定された。暁の顔は、すぐさま輝いた。
「じゃあさ! 私のポアントを、あの子にあげるよ!」
「はあっ?!」
碧とドジョウの声が、揃った。
「暁、お話聞いてたか? 自分の靴は自分だけの物っていうことだろ?」
「そうだ、合ってるぞ、碧」
ド・ジョーが、思わぬ加勢に頷く。
前と横から、ぎゃんぎゃん捲くし立てられても、暁はどこ吹く風だ。
「あげられないの?」
素朴な疑問を呈する。
「ええっと。あげてもいいの、ド・ジョー?」
勢いを失って、碧が尋ねた。
「あー。できはするが……」
しょせん、他人の物だ。
自分の意思ではない。
ただし、最初はそうでも、じきに自分の意思へと変わる例もある。
枯れてしまった自分の意思が、人から与えられたことで、再び芽吹くこともあるのだ。
くだくだと説明する前に、暁は、あっさりと言ってのけた。
「じゃ、あげる」
にこにこ笑っている。
ド・ジョーは、戸惑いを露わにした。
「あー……なんでそこまで? あいつは知り合いか?」
のっぺらぼうの知り合い?
いてたまるか。
碧が突っ込む前に、暁が元気いっぱいに否定する。
「ううん、違うよ! あの子が泣いてたから、助けてあげたいの」
何のこともないように、暁は言った。
純粋な好意だけが溢れている。
逆に、そんなに深く考えていないのが、丸わかりだ。
金色のドジョウのヒゲが、しおしおと垂れた。
毒気を抜かれたような態だ。
「そうか……。そうだな。元来、好意や善意は、単純なものだってことか」
つぶやいた声にも、常に効いている皮肉のスパイスが無かった。
ほとんど独白のように、小さく呟く。
「だがな、大丈夫なのか? 夢の世界は、変わってきている……」
ついこの間からだ。
人々が吐き出す夢の動きは、変わり出した。
遠く離れているのに、距離を物ともせずに、くっついたり。
とてつもない勢いで繋がり、長く連なってみせたりする。
そして、その多くが、時空を作りだす核を持たない。
無秩序な水泡は、ただ、とぐろを巻いて漂うばかりなのだ。
ぶつぶつと呟いているド・ジョーの横に、再び水槽が浮かんでいた。
無意識で出したことに、本人は気付いていない。
中の泡は、激しく動いていた。
繋がる。離れる。
そして、また繋がる。
泡は、チェーンになって、ぐるぐると回り出した。
速い。勢いが、よすぎる。
ぱあんっ……!
とうとう、宙に浮かぶ水槽が、砕けた。
辺りに、水が霧散する。
それだけだ。
さっきとは違い、夢の幻影を閉じ込めた水泡は、生み出されなかった。
何ひとつ、残らない……。
水柱に立つド・ジョーが、苦々しく零した。
「何か、悪いことが……予想もつかないようなことが、起こりゃしないか……」
ド・ジョーの独り言を、二人は黙って拝聴していた。
暁が、そっと碧に聞いた。
「碧、分かる?」
「うーん……」
暁は、幼馴染の頭脳に、絶対的な信頼を置いている。
碧は、唸りながら考え込んでいた。
これは、だめだ。
碧が一発で解けない問題なんて、自分は考えるだけ無駄である。
「よく分からないけど、」
暁は、そう前置きをしてから、真っすぐにド・ジョーを見た。
「ド・ジョーは悲しいの?」
聞いている方が、よほど悲しそうな顔をしている。
ハードボイルドなドジョウの反応は、いっそ可愛らしいものだった。
「い、いや。俺の心配は、別にいい」
へどもどしながら、首を振って否定する。
金色の魚体が、心なしか赤みがかっていた。
ようやく、碧が顔を上げた。
「つまり、暁が自分のトウシューズを他人にあげるのは、よくわかんないけど、リスクがあるかもしれないってこと?」
眼鏡をかけた目には、理智の光が宿っている。
「それに……。夢の世界が変わったって。ド・ジョーにも、なんか危険が及ぶのか?」
素っ気ないふりを装っているが、本当に案じてくれているのが伝わってきた。
暁と碧か。
二人とも、いい子じゃないか。
タイプは、かなり違うがな。
ド・ジョーの心は、決まった。
顔を綻ばせると、かぶりを振る。
「いいや、忘れてくれ。俺の、ただの取り越し苦労だ。それに、変化は世の常。停滞よりも、格段に素晴らしい」
そうだ。善意を、そして好意を注ぐことを、躊躇してはならない。
くるっ
水柱の上で、ド・ジョーは暁達に背を向けた。
眼下には、オーケストラボックスの泉。
楽器達が、勢ぞろいして浮かんでいる。
スタンバイOKだ。
「それじゃあ、始めるとしようぜ!」