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6.永えのピョートル(2)
布地の端っこが、めくれていた。
三角形に大きく折れて、裏が見えている。
そこには、違う光景が描かれていた。
劇場の観客席だ。ドレスアップした人たちが座っている。
その絵も、表地と同じように動き出した。
華やかなバレエの演奏に混じって、小さな声が聞こえてくる。
「すごい、すごい! とっても、きれい! いいなあ、あたしも、あんなふうにおどりたい」
幼い女の子だ。
くるみ割り人形のバレエを観て、瞳を輝かせている。
隣に座った母親が、微笑みながら聞いた。
「じゃあ、みかげちゃんもバレエ習う?」
みかげ?!
暁たちは、顔を見合わせた。
みかげの小さな頃なのか。
裏地に映った幼女は、満面の笑みで答えた。
「うん! みかげちゃん、バレエ習いたい!」
場面が変わった。レオタードを身に着けた幼女が、レッスンしている。
小さな四肢を音楽に合わせて動かすが、お世辞にも上手くない。お遊戯の延長だ。
だが、踊っているみかげの体は、どんどん成長していった。幼女から、少女へと。
それにつれて、手足の動きが、進化を遂げる。
美しい舞踊へと。
ひゅんっ
そこで、くるみ割り人形の織物が、上空に飛んで行ってしまった。
交代だ。下から、違う布地が来た。
ピョートルが、新たな音楽を操り始める。
「眠りの森の美女」
暁と碧が、二人で頷きながら、同時に正解を口にした。
場面は、オーロラ姫の結婚式だ。
おとぎ話の登場人物が招待されて、次々に踊る。とても華やかな一幕だ。
長靴をはいた猫。そして、白猫。赤ずきん。
青い鳥とフロリナ王女。
最後は、オーロラ姫とフロリマンド王子の出番だ。
私たちは、永遠の愛を誓います。
リラの精が、祝福を授けた。
どうぞ末永く、お幸せに。
ああ、まただ。
織物の右下が折れて、裏地が見えていた。
別の光景が見える。
「みかげちゃん、上手だよね」
友達が、取り囲んで誉めそやしていた。
発表会だろうか。
みかげは、誰よりも華やかなチュチュを着ている。得意げに、顔を上げて。
口を開いていないのに、みかげの声がエレベーターの室内に流れた。
きっと、心の声だ。
「私なら、なれるわ。きっと。きっと……」
ひゅんっ
また、織物が飛び上がった。
そして、下から別なのが来た。
打って変わって、物悲しい旋律が奏でられる。
大勢のバレリーナが、真っ白なチュチュに身を包み、羽ばたいている。
美しい水鳥の群舞だ。
「白鳥の湖だ」
さすがに、陽も知っていた。
くっつき虫の桃も、こくこく頷いている。
やっぱり、端がまくれ上がっていた。
三角形の裏地には、みかげがいる。
もう、幼女ではない。
バレリーナを志している、一人の少女だ。
今度は、シンプルなレオタードにゼッケンを付けていた。体操選手みたいだ。
どうやら、何かテストを受けているらしい。
一緒に、何人もの少女が踊っている。
みんな、上手い。
素人目にも分かる。
みかげより遥かに高く、美しく飛んでいた。
みかげの焦りが、聞こえてくる。
「どうして? もっと綺麗に踊れる筈なのに。こんなんじゃダメ。もっと、もっと!」
表地の方では、「白鳥の湖」のバレエが続いていた。
オデット姫が、うなだれている。
群舞の娘たちが、辺りを舞っていた。
まさに、白鳥の群れに見える。
呪われた、この身よ。
白鳥に姿を変えられ、夜しか人に戻れない。
解けない、悪魔ロットバルトの魔法。
「愛している」
あなたの誓いは、未来の扉を開く鍵。
私を照らす、希望の光。
それが今、絶望の闇へと変わる。
鍵は、もうない。
扉は、もう開かない。
あなたは、別の女性を愛してしまった。
私は永遠に、この湖で、白鳥のまま舞い続けるだけ。
ああ、それならば、いっそ果無くなってしまいたい。
踊りが物語るのは、真っ暗な運命だ。
それなのに、真っ白に純真な姿が、美しい。
裏地の場面が、変わった。
バーレッスンで使用するための、移動式のバーをが見える。鉄棒に、キャスターが付いたような代物だ。
少女達が、いくつも引きずり出しては、フロアに設置している。
「ここって!?」
声を出したのは暁だったが、みんな、同じく驚いていた。
間違いない。毎週、自分たちが空手の稽古をしている場所だ。
西センターのトレーニングルームじゃないか。
みかげだ。
みかげが、いる。
同じワンピースを着ていた。
隅の方で、レオタード姿の先生と話している。
白鳥の湖の演奏に混じって、二人の会話も聞こえて来た。
「私、ちゃんと言われた通りに踊りました。それなのに落とされました。何か問題あったんですか? 他に、しなきゃいけなかったこととか、あったんですか」
けんか腰だ。人にものを聞く態度ではない。
「……私のところに、研究所から試験のスコアが届いてるわ。これよ。審査員の先生がイギリスの方だったから、全て英語なんだけどね。簡単に訳すと、技術面が足りていない。あと、音楽を捉える力に不足がある」
ばちん!
音が聞こえた気がした。
いきなり容赦なく叩かれたような心地だ。
こんなに厳しい評価を口にされたのは、生まれて初めてだった。
清水先生は、小さい時から、いつだって私のことを褒めてくれたのに。
なんで? 嘘だったの? 全部?
「試験は、毎年あるわ。みかげちゃんがやる気なら、来年も受けられる。また一年間、それを目指して頑張ってみて」
みかげは、俯いて返事もしない。
「よかったら、このスコア、和訳して渡すけど。現在の問題点と、これからの課題が、みかげちゃんにも分かると思うわ」
まだ無言。
先生は、溜息をついた。
「……とにかく、レオタードに着替えていらっしゃい。レッスンが、」
きっ
みかげが、顔をあげた。
涙で濡れている。嘆きの表情ではない。
憤りだ。
「要りません! そんなの!」
みかげは、大声で叩きつけた。
湧き上がる怒りで、声が震えた。
喉が熱い。息を吸い込むと、嗚咽するような音が出た。
こんなところで、泣くもんか。
口を引き結んで、みかげは出入口のドアに向かった。
ちらちらと、レオタード姿の受講生が、様子をうかがっている。
だが、誰も引き留めたり、話しかけてきたりはしない。
ばたん!
乱暴にドアが閉まった。
裏地に描き出されていた光景が、次第に、ぼやけていく。
ぺらり
折れ曲がっていた端っこが、平らに戻った。
子ども達は、一様に黙りこくった。
マダム・チュウ+999が、穏やかな眼差しで室内を見渡した。
優しく諭すように、言葉を紡ぐ。
「華やかな表地にも、必ず裏地があるのよ。だけど、こんなの、ありふれたお話よ。あなたは、悲劇のヒロインじゃない」
あなたに話しているのよ。
聞いている? みかげ。
「でもね、立ち直って笑い飛ばすヒーローにはなれるわ。そっちの方が、ずうっと恰好いいわよん」
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