終局~ルドン「皿の上に」より~

『名画の詩集』

終局

~ルドン「皿の上に」より~

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On the Dish, plate ten from In Dreams Odilon Redon 1879

殺した筈だ
なぜ お前は皿の上にいる

あれから
朝食も 昼餉(ひるげ)も 夜の宴でも
従者たちは無言で
俺の前に「お前」を置いていく
責める目つきで

 ヘロデ王よ あなたは何故
 徳高き聖人を殺めたのですか

息の根を止めれば
もう(わずら)わされることもなかろうと
思っていたのに

皆 忘れない
それどころか 賛美して止まないのだ

人は
(おのれ)の生きざまを皿の上に載せて
終局を迎える

人は
心動かされる皿に手を伸ばし
日々の(かて)として生きていく

ヨハネよ
命が尽きても お前は終わらない
これからも生き続ける
信じる者の心に

新約聖書「洗礼者ヨハネの殉教」より

ここで、題材にした新約聖書「洗礼者ヨハネの殉教」のお話を

「洗礼者ヨハネの首を。お盆に載せて、それを戴きとう存じます」
サロメの申し出に、ヘロデ王は困惑しました。

「お前の望むものを褒美として与えよう。なんでもよいぞ」
宴の場で、彼女に約してしまったからです。
王として、「できない」とは言えません。沽券にかかわります。

かくして、洗礼者ヨハネは、首を刎ねられてしまった。それが、大まかなあらすじ。


しかし。なぜ、サロメはヨハネの首を欲したのか?

新約聖書の話は、シンプル。情報が、あまり書かれていません。

ヘロデ王は、弟の妻に横恋慕し、強引に自分の妻としていた。
それを公然と批判したのが、洗礼者ヨハネ。
「自分の兄弟の妻と結婚することは、ユダヤ法で許されていない」

ド正論です。
誰も、権力者に面と向かって言えなかっただけ。
激怒したヘロデ王は、ヨハネを捕らえ、監獄に繋ぎ留めました。

とはいえ。ヨハネは民に絶大な人気があった。
そして、ヘロデ王自身も、心の内側では認めていた。
ヨハネこそ聖人である、と。

捕らえたはいいが、どうしたものか……。
処遇に悩んでいるところに、事件は起こりました。

ヘロデ王の誕生日。祝宴が催され、そこでサロメが踊りを披露したのです。
「素晴らしい!」
皆が口々に褒め称えました。いい気になったヘロデ王も、絶賛。浅はかにも、冒頭のセリフを言ってしまったわけです。

実のところ、サロメの立ち位置は微妙なものでした。
彼女は、ヘロデ王の実の子ではありません。例の、強引に手に入れた妻の連れ子でした。

それでもプリンセスとして扱われていたのか?
私は違うと思います。なぜなら、ヘロデ王は、こうも言ったからです。
「望むなら、お前にこの国の半分を与えてもよい」
実子認定ですかね。
もしくは、「お前も俺の妻になれ」的な意図も感じます。
どっちにしても、いやらしさがプンプン。

サロメの母親、つまりヘロデ王の妻は、名を「へロディア」といいました。
時の王様に、無理やり妻にされるくらいなのですから、かなりな美貌の持ち主と思われます。

そして、こう書かれているのです。
へロディアはヨハネを憎んでいた。理由は、結婚を非難されたから。

う~ん。ということは、へロディア自身は、この結婚を
「イエス! OK! 王妃に昇格、権力上等!」と捉えていたんだなあ。
恥じる気持ちや、元の夫への愛情があれば、悲劇のヒロインです。結婚を非難するヨハネは、自分の味方と思うでしょう。
憎んでいた。余計な事言うんじゃないわよ。私はこれでいいんだから。

ヘロデ王に褒美を問われたサロメは、この母親に尋ねます。
「何を願ったらよいでしょう?」

渡りに舟。
「洗礼者ヨハネの首を望みなさい」
娘のサロメは、母に言われた通り、ヘロデ王に申し述べたわけ。
「洗礼者ヨハネの首を。お盆に載せて、それを戴きとう存じます」

Tiziano Vecellio Salome with the head of John the Baptist 1515

さらっと書いてあるけど、サロメが変だ。絶対に、おかしい。

なぜ母親に尋ねるのだろう?
そして、「人を殺せ」という望みなのに、なぜ唯々諾々として従うのだろう。

サロメの年齢は書いていない。
だが、そう幼くはない筈。
彼女の踊りは、宴の列席者から誉めそやされている。
そう、男心をくすぐる程度には熟していたと思われるのだ。
これが幼い子供の舞であったら、「あらあら、かわいいねえ。お上手ねえ」で終わるだけだから。

なのに、自分で考えていない。
母に聞く。そのまま伝える。その行動に、幼さを感じる。

母へロディアにも、空恐ろしさを感じる。
自分の邪魔者を消すために、我が娘を利用する。まったく躊躇わない。

そもそも、ヘロデ王がヨハネを殺せなかったのは、
「聖人殺して、地獄行きとか怖いな~」
だった。へロディアだって、それを分かっていたはずだ。
なのに、娘に片棒を担がせてしまう。

そしてサロメは言いなりになる。
全て分かって母の望みを叶えたかったのか、反抗できないだけなのか。

歪んだ母子関係が、あったのではないかと思う。
支配する母親。そして、宮廷に自分の明確な居場所は無い。
そんななか、踊りを認められて、何か褒美を頂けるという。

ねえ、私、すごいでしょ。ほめて。
お母さまの役に立てるでしょ?

貰った獲物を口に銜えて、母親の前に差し出すサロメ。

だが、支配欲の強い人間は、自分に隷属する者を見直したりはしない。
下す評価は、常にマイナス。自分の役に立って、はじめてゼロになる程度だ。
永遠に、プラスにはならない。
へロディアが娘のサロメを認める日は、永遠に来ない。

また、サロメの側には、義理の父に対する反感があったに違いない。
ヨハネを殺したら、王として困る事態になる。幼女でなければ、そのくらいは分かった筈だ。

ふん、困ればいいんだわ。
国の行く末を案じる視点は、継子のサロメには無い。

そして、殺されるヨハネに対する同情も、サロメにはなかった。
たぶん、それどころではなくなるのだ。
ずっと母親から認められたくて、愛情が欲しくて、でも得られない。
この満たされない欲求は、原始的なものだ。
加えて、思春期の暴風が、その体内に巻き起こっていただろう。
両方が合わさる時、それは破壊的な衝動となって、他者へと向けられる。

死んだって構わないでしょ、そんなやつ。

もともと、王族に連なるお嬢様だ。食うに困ったことのある生まれではない。
他者に対する憐れみも、自分に精一杯の状況で、軽く吹っ飛んでいる。


お盆に載せられたヨハネの首。
それを、サロメはどんな気持ちで受け取ったのだろうか。

縋るような目で母に差し出す。
だが、へロディアは、目を向けて認めると、それきり。手を払って追いやる。
彼女にとっては、ヨハネが死にさえすればいいから。
あらそう。もう終わったの。あっちへやって頂戴。

母親の様子に、サロメは悟るだろう。
何も変わらない。
人を殺したって、自分に愛情を持ってくれるわけではないのだ、と。

そして、取り返しのつかない事実だけが残る。
ただ、聖人が一人、犠牲になっただけだという……。

〔注意書き〕
オペラの「サロメ」ではなく、新約聖書の話から考察しています。
オペラの元となったオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」は、いわば二次創作。
新約聖書の話を独自に脚色し、キャラ設定等もモリモリに盛ったもの。
それはそれで楽しいのですが。

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終局(しゅうきょく)
~ルドン「(さら)(うえ)に」より~

(ころ)した(はず)
なぜ お(まえ)(さら)(うえ)にいる

あれから
朝食(ちょうしょく)も 昼餉(ひるげ)も (よる)(うたげ)でも
従者(じゅうしゃ)たちは無言(むごん)
(おれ)(まえ)に「お(まえ)」を()いていく
()める()つきで

 ヘロデ(おう)よ あなたは何故(なぜ)
 (とく)(たか)聖人(せいじん)(あや)めたのですか

(いき)()()めれば
もう(わずら)わされることもなかろうと
(おも)っていたのに

(みな) (わす)れない
それどころか 賛美(さんび)して()まないのだ

(ひと)
(おのれ)()きざまを(さら)(うえ)()せて
終局(しゅうきょく)(むか)える

(ひと)
(こころ)(うご)かされる(さら)()()ばし
日々(ひび)(かて)として()きていく

ヨハネよ
(いのち)()きても お(まえ)()わらない
これからも()(つづ)ける
(しん)じる(もの)(こころ)

新約聖書しんやくせいしょ洗礼者せんれいしゃヨハネの殉教じゅんきょう」より

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